お祓いの徳
道づれ新春開運祈願祭(1月12日)教主様御親教要旨

平成26年3月号掲載

神気満ちる

 おこがましいようですが、今年の黒住教立教二百年を寿(ことほ)いで下さるように、昨年は大きな御(み)祭りが続きました。わが国神道の大社(おおやしろ)というと、岡山から言って東の伊勢神宮、そして西の出雲(いずも)大社です。その出雲大社が「平成の大遷宮」と銘打ち、日本一の大宮である御本殿の御屋根を葺(ふ)き替えられました。大遷宮祭は5月に執り行われて、次男の宗忠神社宮司が参拝しました。すべての御祭りが終わった7月に長男の副教主がお参りいたしました。そして9月に私がお参りしたのですが、千家尊祐(せんげたかまさ)宮司が二人の弟君と共にお迎え下さるということで、およそ30余名の出雲大社近辺のお道づれも一緒にお参りさせていただきました。

 そしていよいよ10月2日が、お伊勢様の内宮(ないくう)「遷御(せんぎょ)の儀(ぎ)」でした。今回は副教主、八代宗芳と三代揃(そろ)ってお参りさせていただくというご神慮に恵まれました。私たちの最前列には皇室を代表しての秋篠宮殿下、安倍晋三内閣総理大臣、各大臣と続き、230人余りの“特別参列員”の中で親子孫三代が参拝いたしました。私たちが同じ思いであったことは、この御祭りは日本という国の命の蘇(よみがえ)り、新たな生命の誕生だということでした。後で聞いたことですが、その時間、天皇陛下も皇太子殿下も皇居また御所の、外に出て遥拝(ようはい)されていたということです。

 「遷御の儀」の祭主をつとめられたのは陛下の御姉上様の池田厚子様、臨時祭主として陛下のご長女の黒田清子(さやこ)様、大宮司は皇室の関係の鷹司(たかつかさ)尚武様、そして一般の神職の200人ほどが装束を着けられての大祭典でした。しかし実際に祭典を取り仕切られたのは、陛下に代わって参拝の皇室からの勅使(ちょくし)の方でした。伊勢神宮の御祭りが皇室の御祭りであるということ、従って日本の国の中枢に関わることであることがこのことだけでも分かります。表だってそういう表現はありませんが、そういった姿を、雰囲気を、本当に有り難く感じました。ですから、5月の出雲大社、10月のお伊勢様の大御祭りで、日本という国に、新しい神気が満ち満ちて来ているのを感じます。そういうものを生み出す力がこの国日本にはあるのです。単なる偶然ではありません。それが昨年でした。その上に立って、今年の平成26年をお迎えしているわけです。お互いこの一年を本当に大切にしてまいりましょう。


お祓いを上げる

 その大切につとめる一つが「立教二百年 教祖神報恩一千万本お祓い献読」(11月3日まで)です。お祓いを上げるということは下腹からの声で朗々と唱えることが一番ですが、それだけではありません。いろいろなところで、声は出さなくても、お祓いは上がります。そしてお祓いが上がる中に、何とも言えない味わいのある時間をいただけるのです。

 今、教会所でおつとめになっている方が次々とあるでしょうが、大教殿でも、寒の入りから節分の前日まで寒修行が行われています。今朝の寒修行もそうですが、皆様と共に大きな声でお祓いを上げていますと、3回、4回とつとめておりますとだんだん心が鎮まってきます。自分が上げているのですが、お祓いの糸巻きのようなものがお腹(なか)の底にあって御神前から引っ張り出されて、自分の声がついて行っているような、そういう感覚になってきた時こそお祓いの徳をいただける時です。そしてお祓いの糸に乗って、ご神徳が注ぎ込まれている、そういった有り難い、ほのぼのとした、澄み切った思いをいただきます。

 この岡山に、かつて金重陶陽という備前焼の名工がおられました。この陶陽先生の作品は今に評価が高いのですが、「自分は鎌倉時代や室町時代に作られていたような山茶碗や擂(す)り鉢のようなものを作りたい」と仰(おっ)しゃっていました。若い頃は分かりませんでしたが、あらためて先生が言われたような山茶碗や擂り鉢を見ると何とも言えない味わいがあります。それはなぜだろうと専門家に教えを請うと、山茶碗や擂り鉢は窯の中での重ね焼きで、たくさん重ねて焼く。いずれも、同じ量の土を手にして、ろくろで同じ角度に成形します。そうしないと重ね焼きができません。機械のようになって作るのですが、心のある人間は、誰かに使われてしているような、それが楽しい、嬉(うれ)しい、有り難いという思いで、全く作意も消えて無心無我でやっていたに違いない。そういう時にその焼き物に命が宿ります。何100年経(た)っても生きているわけです。しかも人の心に沁(し)みるような美しさ、味わいの深いものが生まれる。お祓いを上げることも一緒で、同じ言葉を何度も何度も繰り返しているうちに、自分が上げてはいるのですが自分が上げているのではない、お祓いを上げさせられている、引っ張り出されるように言葉がどんどん出てきます。ただ、焼き物づくりと違うところは、そこに大御神様の、われわれにおきましてはご一体の教祖神のお徳がスーッと入ってくる、祓われて、邪魔なものが除かれて、おかげをいただける道ができてくる。だから数のお祓いというのは大切なのです。その積み重ねの上に、10月11日から始まる立教二百年大祝祭をお迎えしましょう。もっとも、初心の方で大祓詞(おおはらえのことば)をまだ覚えていない方は、私たちが祝詞(のりと)を奏上する時のように「お祓い本」を両手に持って掲げ、腰骨を立てて大きな声で読み上げるところから始めて下さい。

 お祓いを上げるということは本当に有り難いことです。生きるか死ぬかの瀬戸際にあった人が、私がその方のために御神前でお祓いを上げている時、時を同じくして、大教殿いっぱいの人がお祓いを上げて下さっているのを死の床にあって見たと言われていました。実際には私ともう一人しかつとめていなかったのですが、「大教殿いっぱいの人が私のために祈って下さっていた」と言われたのでした。有り難いことにこの大教殿は、皆様のお祓いの徳が詰まっている、そういう場なのです。

 皆様、それぞれのお祓いの徳を身に付けて下さい。お祓いを上げるということは、単なる呼吸ではありません。普通の呼吸では大きな息をするとなると肩で息をするようになりますが、お祓いは下腹で上げますから、呼吸も下腹で行い、肩は動きません。お祓いを上げること自体が御陽気修行でもあり、下腹に鎮まる大御神様のご分心(ぶんしん)(わけみたま)をお養い申し上げているのです。お祓いを上げることがわがご分心を磨き養うことなのです。なぜご分心を養い磨かないといけないのか。遅かれ早かれいずれは息を引き取るお互いです。その時を終わりとするか、新たな出発とするか。“生き通し”への道につながるかどうかです。それを毎日毎日問われているのが、私たちの人生と言っても過言ではないと思います。ますます有り難くつとめてまいりましょう。