立教二百年を迎えた本教の使命
平成26年1月号掲載
謹賀新年。立教二百年、お互いに、おめでとうございます。
数年前、ある学者の方から言われた話です。「日本人を教祖とする宗教が立教二百年を迎えるのは初めてですよ」。私は少々驚きながら、岡山の生んだ浄土宗の法然上人はもとより空海、最澄と仏教界の巨人ともいえる方々のお名前を口にしましたら、「あの方々は開祖でして、教祖はインドの方ですよ」と言われて、なるほど……と思うとともに、本教の責任の重きをあらためてかみしめたことでした。
いよいよ立教二百年の年を迎えてこの感を一層深くしますとともに、思いは次々と巡り巡りました。
かつて二代宗信様の時代、初めての伊勢千人参りの時、一行を迎えた伊勢神宮の当時外宮(げくう)に仕(つか)えていた国学者でもある足代(あじろ)弘訓(ひろのり)師の言われたひと言です。
「神道の大元はここ伊勢だが、教えの大元は備前(びぜん)の中野なり」とのお言葉です。
伊勢に参り集った千人のお道づれの大感激の中に、教祖神ご降誕、ご立教の地である備前の中野は、「大元」と呼び称されるようになっていきました。
ぐっと下(くだ)って昭和43年(1968)11月、初めて今日(こんにち)の神道山に上がった私は、ご案内下さった地元の長老が指差し教えて下さった山中の石碑に驚きました。そこには「右花尻、左尾上大元道」と刻されていました(現在、黒住教学院への道の入り口にある)。「ここから北西の備中(びっちゅう)、伯耆(ほうき)(鳥取県西部)はもとより出雲(いずも)(島根県)からの大元参りの皆さんにとって、最後の山越えがこの神道山だったのです。この道標のように左へこの山道を行けば尾上の村に下って、あとは大元様まで平地です。私の子供の頃など、冬至の日には大元参りの赤ケット(赤いショールのような小さな毛布を頭にかぶった人々。お参りの時にはこれで暖(だん)を取る)が続いたものです」と、遠い昔を思い出すように話して下さいました。
「神道の教えの大元」が、再び三度蘇(よみがえ)ったのは昭和54年(1979)でした。この年8月、アメリカで第3回の世界宗教者平和会議(WCRPⅢ)世界大会が開催されるに当たり、その事務局より、開会式の執り行われるニューヨークのセントパトリック大聖堂で、開会の祈りをつとめるようにとの連絡をいただいたのです。かつてシンガポールでのアジアの宗教者大会での経験はありましたが、世界大会では初めてのことです。緊張と感激の中につとめさせていただきましたが、後(あと)で知ったことですが、30名余り参加の日本人宗教者の中で、いわば“日本製”の宗教としてしかも教えを持った神道として最も古い黒住教ということで指名されたということでした。開会の祈りは、かつてアメリカと戦って今は緊密な同盟関係にある日本からの宗教者でというのは、言うまでもありませんでした。
ニューヨークのセントパトリックから21年を経た平成12年(2000)、同じニューヨークの今度は国連本部を主会場に、ミレニアム世界平和サミットなる世界の宗教者の大会が開かれることになり、長男の副教主が日本使節団の幹事長役を仰せ付けられました。これまた何故にと思いつつも、大会開催事務局の意向に沿って人選を進めました。日本は神道の国であり同時に仏教の国であるから、神道の大元である伊勢神宮の大宮司様と、仏教の母山である比叡山天台宗のお座主(ざす)様に同行していただくようにとの事務局からの要請でした。伯母上の香淳(こうじゅん)皇太后(こうたいごう)様(さま)がご昇天間もない久邇(くに)邦昭(くに き)大宮司様、奥様が亡くなられて程ない渡邊(わたなべ)惠進(えしん)お座主様も出席下さり、日本使節団としての面目を保つことができたことでした。しかも本教の副教主が幹事長役となったのも、後(のち)に聞いたことですが、一(いつ)に日本に生まれた日本人を教祖とする神道教団で最も長い歴史を有するが故と聞かされ、感激を新たにしたことでした。
ところで、セントパトリック大聖堂における私のつとめた世界宗教者平和会議の開会式に、学生時代のヘレン・ハーデカ現ハーバード大学教授が出席されていました。
当時プリンストン大学で日本の宗教を中心に宗教を幅広く研究していた女史は、これを機に黒住教の研究を始め、ついには来日して神道山はもとより当時の福光佐郎大教殿司教がつとめる大井中教会所を拠点として各地の教会所も訪ねてお道づれの多くにもお会いして、黒住教信仰を探求していかれました。特に福光司教には、その人となりに敬服し、深くその信仰心に胸打たれ、黒住教研究は一層進んだようでした。その後ハーバード大学の教授に抜擢(ばってき)され、さらに日本文化研究の拠点として世界的に名高い同大学のライシャワー日本文化研究所所長に就任するや、本教の吉備楽一行を招いて演奏会を開いて下さいました。小さなホールながら満席の人々の心を打ったのは、「櫻井(さくらい)の里」の舞曲が演奏された時でした。
建武(けんむ)の中興(ちゅうこう)(1333年)の時、後醍醐(ごだいご)天皇に忠節を尽くして果てた楠木正成(まさしげ)、正行(まさつら)父子の別れの場面である「櫻井の里」が終わった折、スタンディングオベーション(観客総立ちしての拍手喝采)を得たのでした。そこには、時代を超え洋の東西を越えて、人の誠、我を離れて尽くす誠ごころに対する感動、感激があったのです。
現在、ヘレン・ハーデカ教授は、日本古来の神信仰である神道を正しく世界に伝えねばとの強い使命感のもと、古代日本から始めて現代に至る神道を論じ、上梓(じょうし)(本を出版)しようとされています。特に、江戸時代から現代に至るところでは、本教のことが詳しく記されるようです。とりわけ、孝明天皇を中心に明治維新の精神的な中核となった本教を顕彰したいと仰(おっ)しゃっています。
かつて國學院(こくがくいん)大学の神道学の平井直房教授が「ヘレン・ハーデカ女史のような方がアメリカにいらっしゃることは、日本人にとってまた神道界にとってまことに有り難いこと」と言われていたことが、いよいよ現実になるわけです。
立教二百年を迎えた本教の、また大きな使命を担う思いで新年を迎えたことであります。