伊勢神宮の式年遷宮「遷御の儀」にお参りして
道ごころ 平成25年11月号掲載
10月2日午後6時、西の空にまだ明るさがわずかに残る中で「遷御(せんぎょ)の儀(ぎ)」は始まりました。いつも新春の参宮で皆様と一緒にお祓いを上げる所である「板垣南御門内東側」に幄舎(あくしゃ)が造られていて、特別参列員二百数十名の席が用意されてありました。
昭和48年の家内祥重(よしえ)との参拝、平成5年の長男宗道とのお参りに続いて今回は、副教主の宗道と共に八代の宗芳もお参りさせていただき、三代揃(そろ)っての参拝という光栄に浴しました。まことにおおけなき思いの私たちでして、これもひとえに教祖神以来の有形無形のご神縁をいただく本教なればこそであり、その上、前回に続いてこの度の式年遷宮にも奉賛の誠を捧(ささ)げ続けられたお道づれの皆様のおかげでお参りできたことで、心から有り難く緊張の中に席に着きました。
20年間、全国民の祈りが込められたと言っても過言ではない内宮(ないくう)は、夜の帳(とばり)が下りるにつれていよいよ神さびて、見つめるのももったいない思いに駆られました。
日が落ちてまさに浄闇(じょうあん)の中、はるか離れた所の御(ご)正宮(しょうぐう)で遷御のための所作が続けられているのでしょうが、辺りは全くの静寂に包まれ、そこに人が居るのかと思うほどの沈黙の時間が流れていきました。心の中でお祓いを上げつつ、私の中では教祖神以来のお伊勢様が走馬灯のように、今で言うなら動画のように現れてきました。
江戸時代、ひたすら大御神様の御開運を祈られてのご生涯6度ものご参宮。教えの大元とのひとことをいただき霊地大元と称され始めた二代様時代の千人参り。明治時代の三代様、四代様と続いた5回の萬人(まんにん)参り。戦前、戦中、戦後と子供の頃から度々連れて参って下さった五代様のご参宮、とりわけ装束姿のその堂々たるご参拝に神宮の方々も並んで迎えられたご参宮などが、次々と浮かんできました。
中でも、昭和49年、神道山における大教殿ご造営の最終段階で、前年の昭和48年のご遷宮で古殿となった内宮御正宮のご神木を大量に賜って、大教殿御神殿のほとんどを設(しつら)えることのできたこと、そして昭和55年、59年、さらに平成6年の萬人参りなど、いずれも胸熱くなりながら、その一つひとつを「遷御の儀」のさ中に再び三度かみしめることのできることを、この上なく有り難く思いました。
前回もまた前々回もそうでしたが、耳に聞こえてくる秋の虫の音(ね)はほんのわずかで、その静けさの中の祈りは、大御神様の20年間の御神威に感謝して幕を閉じる御祭(みまつ)りのようにも感じられました。
9月の末、宗教紙「中外日報」から「遷御の儀」について求められて送ったコメントが蘇(よみがえ)ってきました。
「わが国日本の生命の核と崇(あが)め奉(まつ)る神宮、第62回式年遷宮遷御の儀。5月の出雲大社の遷宮祭と相まって、わが国に新たな生気が満ちて来るのを有り難く実感するきょうこの頃です」。
まさに、わが国日本の生命の核が蘇る御祭りです。
秋篠宮殿下、臨時祭主の黒田清子(さやこ)様、御祭りの中心をなす御(ご)祭文(さいもん)を奏上するのは、天皇陛下に代わって参拝の勅使(ちょくし)の方です。
事実、この日この時、陛下は皇居の神嘉殿(しんかでん)の前に立たれて伊勢に向かって祈り続けられる「遥拝(ようはい)の儀」をおつとめされていたのです。安倍総理夫妻をはじめ、麻生副総理ら多くの閣僚方の参拝。わが国の本体に関わる尊い祈りの時です。
厳粛な中に確かな御神威を感じながら頭をよぎったのは、昭和20年9月27日の先帝昭和天皇のことでした。
折から、全国で上映されている映画「終戦のエンペラー」のクライマックスシーンが、まぶたの裏に再現してきました。これは日本人の製作者によるアメリカ製の映画で、名のごとく先の大戦の昭和天皇を追い求めたものです。
太平洋のテニアン島から飛び立ったB29が、広島に原爆を投下するところから始まったこの映画は、わが国の無残に焼き尽くされた各都市を映し出します。世界の戦争の歴史の中で、二度まで原爆を投下され、都市という都市が壊滅した戦争は未曽有(みぞう)のものでした。映画の終盤、昭和天皇が御自ら連合軍最高司令長官マッカーサー元帥を訪ねられます。戦争の歴史が常にそうであるように、命乞いに来たと思っていたマ元帥の思いとは丸反対に、陛下は静かに、「この度の戦争の責任はすべて自分にある」と明言されました。驚き、目がうろうろし、涙さえにじみ出るマ元帥が演じられていました。
戦後日本の始まりと言える尊い一瞬が、こうしてアメリカ映画に登場したことは実に意義深く感激を新たにしたことですが、陛下のこのご言動の寄ってくるところこそ、この伊勢神宮、内宮の御正殿(ごしょうでん)にお鎮まりになる大御神様であることをあらためて確信させてくれた映画でした。
それは2年前の大災害の時にも現れました。今上(きんじょう)陛下の3月16日のテレビを通じてのお言葉。そして、現地に行幸(ぎょうこう)なっての被災した人々にかけられた「よくぞ生きていて下さいました」のご一言です。
このような大御心(おおみこころ)こそ、実に、陛下がご即位後ほどなくおつとめになる大(だい)嘗(じょう)祭(さい)の時、伊勢神宮に鎮まります皇祖天照大御神の御神霊を神迎(かみむか)えされる神秘の祈りによってお鎮まりになる天皇霊であります。従って天皇陛下の御日々は、この天皇霊すなわち大御心をお養いになることに終始されていると恐れながら拝察しています。不遜(ふ そん)ながら、このような思いに浸りながら侍(はべ)っていますと、有り難さが迫るように大きく強くなってまいりました。
静寂、沈黙の世界から我に帰ったのは、大宮司、少宮司をはじめ数多くの神職の方々の浅沓(あさぐつ)の音でした。いよいよ御神体の出御(しゅつぎょ)です。絹垣(きんがい)に覆われ、篳篥(ひちりき)の音と楽人の低い歌声に先導された御神体は、西の御(み)敷地(しきち)に立つ新正殿に向かわれました。奉仕の神職方に付いて、私ども二百数十名も新しい御敷地内の旧と同じ所に向かいます。参道と五十鈴川の間に設えられた特別奉拝席が埋め尽くされているのが、夜目にも分かります。三千名の方々の、ひとつ心に新宮(にい みや)に向かっていらっしゃる熱いものが伝わって来て、また別の感動に包まれました。事実、奉拝席に座る本教の3人の総務は、その瞬間、東から西に吹いた一陣の風に身を固くしたと話していました。前回も前々回もそうでしたが、新御敷地にすだく虫の音は力強く、大御神様を喜び迎えているように感じられました。
翌朝10時、抜けるような青空の下、斎服に御身を包まれた祭主池田厚子様以下祭員百数十名によって、天皇陛下の御供(おそなえ)物(もの)「幣帛(へいはく)」を供(きょう)する「奉幣(ほうへい)の儀」が執り行われ、いよいよ新たな20年が始まりました。
天皇陛下の御(ご)聖寿(せいじゅ)の萬歳(ばんざい)、わが国日本の隆昌、さらに天地のご安泰、世界の大和(たいわ)を祈って心の中で上げ続けてきた大(おお)祓(はらえの)詞(ことば)の終わりに、「謹みて天照大御神の御開運を祈り奉(たてまつ)る」とともに「立教二百年大祝祭の成就を祈り奉る」の祈りを心中でつとめて、私の「遷御の儀」参拝の締めといたしました。
それにしましても、黒住教という教団のおかげで、私の喜寿の年に親子孫三代揃って、伊勢神宮式年遷宮のいわば本祭典の「遷御の儀」にお参りさせていただけた感激は、筆舌に尽くし難いものでした。
なお、5日に斎行されました外宮(げくう)の「遷御の儀」には、次男忠親宗忠神社宮司と、倉田功久教議会議長が特別参列員として参拝させていただきました。有り難うございました。心から厚く御礼申し上げます。