寄稿三題

道ごころ 平成25年8月号掲載

 教主様は、公益財団法人世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会の評議員や岡山県立岡山西支援学校(旧養護学校)の教育後援会長、児童養護施設南野(なんや)育成園の後援会長等をおつとめになっています。

平和の原点(機関紙「WCRP」)

 50年余りも前のことですが、私の学生時代の恩師が話された一(ひと)ことが今に忘れられません。「老いた母親に『いつ自分を可愛(かわい)いと思ったか』と尋ねたとき、母は『ある時、ふとお前を授かったと思った。その夜は、おなかのお前が愛(いと)しうて可愛(かわ)いくて、ひと晩中おなかを撫でて眠れなんだ』と言った」。その教授の両眼(りょうめ)には涙が湛(たた)えられていました。
 その後、社会人になってのある日、出雲(いずも)(島根県)で出会った一人の婦人から、「わが家の嫁のお宮さんに日(霊(ひ))が止まりました」と言われて感じ入りました。妊娠したことをこのように表現する心の奥深さ、そういう言葉が生きている出雲の地に感心しました。  同じ頃、「妊娠中に火事を見るとおなかの子に災いがある」と、若かった私には首をかしげたくなるようなことをつぶやいていた老婦人がいました。  その時代、私たちの世代の多くは、親の世代の「子どもを授かる」から“子どもをつくる”になっていましたし、それどころか“できちゃった。どちらにしようかな”との声さえ聞こえていました。その上、当時は、生まれた赤ちゃんは早々に母親から離されて新生児室に置かれ、母乳よりも人工のミルクが優先されるレールが敷かれていました。
 ここ10数年、このようなお産、育児への反省が顕著なことは喜ばしいことですが、乳幼児が口にするもの身につけるものなどに、どれだけ母親の手がかけられているかはなはだ疑問です。
 胎児にとってユートピア、絶対安心の場であるはずのお母さんのおなかの中で、母親自身の心の傷、不安、いらだち等からやってくるまさに火事を見たような心の災いから、赤ちゃんがどれだけ守られているでしょうか。さらには、天然自然物そのものの人間に、内から外から人工的なものが入り続けると、その本来の性(さが)が損(そこ)なわれるのではないかと思うとき、動物園の虎や象の母親の育児放棄が他人事でなくなります。人間も生物、そして動物しかも哺乳動物であることを忘れてはならないと思います。
 赤ちゃんにとってその母親は、全身でもって、全人類を代表して、信じる心の大切さ、尊さを教えてくれる実に尊い存在です。
 世界平和という大海は、このような母と子の信の一字のひとしずくが集まって初めて成るのではないかと、出会う若い人に話し続けている昨今です。

二代校長 森綾夫先生のこと(西支援学校教育後援会報)

 昭和40年代の前半頃、私は県の児童福祉審議会の一員としていました。会を仕切っていらしたのは梶並角助という方でした。今の美作(みま さか)市のその名も梶並、旧梶並村出身の梶並氏ですから、その人となりからして一代でできたものではない伝統の重みともいえるものを湛(たた)えた方でした。
 昭和55年の秋頃でしたか、かねてご尊敬申し上げ何かとご指導賜っていました元岡山商工会議所会頭でパンの木村屋創始者の梶谷忠二氏と、元岡山県教育長の川上亀義氏が、一人の見るからに骨太の方をご案内してお訪ね下さいました。この骨太の方が森綾夫先生でした。まず声からしてどこかでお会いしたような第一印象。間違いありませんでした。前記の梶並角助氏のご実弟でした。
 梶谷、川上両氏が交々(こもごも)仰(おっ)しゃったのが次のようなことでした。「この森先生はこの度新しくできた県立西養護学校の二代目の校長先生。かねてこういうお子さんのための学校をとの声があったが、ようやく岡山県に誕生したのがこの“西養”。学校は発足したものの様々(さまざま)な面で足らざることばかり。ついては、この“西養”の応援団になるような教育後援会をつくりたい。ついてはあなたに会長になってほしい。私たち二人が副会長として支えるから、ぜひ受けていただきたい」でした。私にとってはこのような御二方、しかも親のような年齢の大先輩のお言葉をお断りすることはできませんでした。弱輩不敏な身の者が大役を仰せつかったのはこのようないきさつからでした。
 御二人の副会長は次々とそうそうたる方を後援会役員に選ばれ、森校長先生は後援会事務局長として大車輪の活動を始められました。財界の方々を訪ねて募財に努められる一方、PTAの親御さん方を中心に広く後援会員を募(つの)られました。
 県の古い施設建物を転用して始まった“西養”は、おかげで徐々に学校としての体(てい)をなしていきました。
 校舎の整備がハードとすると、ソフト面で特筆すべきは、ラジオで有名な秋山ちえ子先生や、朝鮮王朝最後の王子垠(ぎん)殿下に日本の宮家から嫁がれた李方子(り まさこ)様ら、児童福祉に造詣(ぞうけい)深い方々が次々と来校され、そのお話に多くの方が心から感動したことでした。
 今から思いますと、森先生のご深慮(しんりょ)とこの子たちへの強い愛情が梶谷、川上の両先生を突き動かし、“西養”の“創造”になったと思います。
 末筆ながら、改めて森綾夫先生のますますのご健勝を心からお祈り申し上げます。

熱い関心を願って(南野育成園後援会報「なんや」)

 “愛情”の反対語はと問われれば憎しみと答える人が多かったものですが、実は“無関心”と言う人が多くなったのは、かつてかのマザーテレサ尼(に)が来日されてからではなかったかと思います。マザーテレサは「日本はこのように発展しているのに淋(さび)しい人、不幸な人が多いのはどうしたことでしょう。人々があまりに自分のことばかりにとらわれて、他の人々、特に弱い人に無関心だからではないでしょうか……」というようなことを言われたのがきっかけではなかったかと思います。
 そういう意味で、南野育成園の子供たちに地元の方々をはじめ多くの方が関心を寄せて下さることは本当に有り難いことだと、常々、思っています。それはまず、創立者の土光(どこう)午次郎(うまじろう)氏が人徳高く人々から尊敬されていたことに始まり、土光家の方々が育成園に尽くされたことが基となっていることです。その上に、成徳(せいとく)学校でお若い頃からご夫妻で泊まりこんで子供たちをわが子のように守り育てて来られた、現在の園長叶原(かなはら)土筆(つくし)先生という大黒柱を得ていることが大きいと思います。
 毎年6月開催の後援会総会は、今年も“南野”を想(おも)う方々の熱い心であふれました。5月の“南野まつり”はもとより、特志の方の奉仕を得ての2月の節分祭り、12月のもちつき大会など、ますます皆様のお力添えと参加を得て、子供たちに熱い心が寄せられますよう、改めてお願い申し上げる次第です。