旭川児童院
道ごころ 平成25年7月号掲載
45周年に寄せて/思い出の中の児童院
半世紀近く前、教主様が青年連盟長時代に本教の青年連盟は“重障児運動”を展開し、旭川児童院が創設される取り運びに至ったことは周知の通りですが、平成24年度にその旭川児童院と旭川療育園は発展的に一つの医療機関に統合され、「旭川荘療育・医療センター」としてスタートしました。教主様には、旭川荘の理事として長年にわたり“奉仕の誠”を捧(ささ)げられていて、旭川児童院45周年記念誌「笑顔重ねて45年」に児童院創立当時を振り返ってご寄稿になりました。
また、黒住祥重婦人会名誉会長様は旭川荘の「ボランティア友の会」の会長を長年にわたっておつとめで、同誌に教主様と共に一文を寄せられました。
今号の「道ごころ」には、お二方のご寄稿文を転載させていただきます。 (編集部)
重障児とその三人のお母さん
教主黒住宗晴
昭和39年の東京オリンピック、続くパラリンピックが終わって程ない頃、私は父の奨(すす)めで初めて江草安彦先生にお会いしてお話を伺いました。そこで先生のお口から出てきたのが、重症心身障がい児の施設をつくりたいとの熱い想(おも)いでした。学校を終えて若い人たちの集まりもできつつあった私にとって、何かしたいと言っている連中との話は早速まとまりました。江草先生の元におられた柴田武男先生のご苦労で、三人のお母さんが手を挙げて下さいました。ヤッちゃん、モトちゃん、キョウちゃん、シゲちゃん、それぞれ今言うところの超重障児の彼ら彼女たちは、お母さんとの日常生活をそのまま写真に、16ミリフィルムに、そしてその頃映画が多くの人に楽しまれていた中で、シネマスコープにまで登場してくれました。
拡大した写真パネルを背に、昭和40年4月から9月末までの半年間に区切って日曜祭日ごとに、中四国の街の駅前や、繁華街での街頭募金が続きました。揚げられた横断幕には「中四国を対象に重症心身障害児の施設を造ろう」とありました。折から人気を呼んだ「マイ・フェア・レディ」なるミュージカル映画に併せて、このシネマスコープの映画は各地で上映されました。備前焼作家をはじめ各地の陶芸家、また名高い日本画家や洋画家、さらに宗教家方の書など、その作品を提供して下さっての「展示即売会」は盛況を極めました。まだその頃、畳表のイ草つくりが盛んな岡山で、イ草刈りの手伝いをした青年たち、また手植えによる田植えのこの時代、田んぼに入った連中の得た日当が、すべて施設づくりに届けられました。
青年たちの汗は次第に多くの方の理解と協力を生み、更に山陽新聞社が社告を打ってのキャンペーン活動は大きなうねりとなって、昭和42年4月の旭川児童院創立となりました。
開院のこの日、三人のお母さんに会われた旭川荘の創設者・川?祐宣(すけ のぶ)先生が、お母さん方の異口同音に語った「おかげで、わが子は初めて人様のためにお役に立つことができました」の一言に、心底感じ入っていらしたのが忘れられません。
させていただき・学ばせてもらうこと
婦人会名誉会長黒住祥重
旭川児童院が開院した昭和42年の春、院長の江草安彦先生とお目にかかった義母黒住千鶴子が驚いたのは、児童院で毎日使われるおしめの数の多さでした。黒住教婦人会の人たちと話して、せめて職員の方がお休みの日のおしめたたみは私たちでさせていただこうということになり、日曜日ごとの奉仕が始まりました。
義父の黒住教先代教主が旭川荘の創設者である川?祐宣先生と親しかったことから、昭和32年の旭川荘創立の時から、旭川荘とわが家とのご縁は深く、その後嫁いでまいりました私も旭川荘のことはよく父から聞かされていました。「障がいがある人たちに私たちが手をさしのべるのは当たり前のことなのだ。しかもそれは、決してしてあげるのではない。させていただく、させてもらうのだ。このことは奉仕の汗を流せばよく分かる。心祓われ、湧き上がるような喜びがあるのが奉仕だ。だから奉仕は仕え奉ると書くように、させていただくことなのだ。」とよく話してくれました。
私たちはもとより、様々(さま ざま)な団体また個人でのおしめたたみ奉仕が重ねられている内に、ボランティア友の会が結成され、当時の岡山県知事長野士郎氏夫人の洋子様が初代会長に就任されて、ボランティア活動は一層活発になっていきました。その後、長野様がお退きになった後を会長をということで、いたらないながら重責を賜り今日(こん にち)に至っています。
友の会でよく話に出ることですが、肉体の機能は極めて厳しい中にある方々が、その本体と申しましょうか心の奥深いところは、私たちの想像もできない鋭敏さをもってたくましく生きて働いていらっしゃるということです。
児童院創設に身をもって尽くされた山根元光さんなどはその典型でした。20数年前、重い病でお亡くなりになりましたが、その間入院中の病院でお母様が仕事を終えてお見舞いに来られますと、それまでの閉じたままのまぶたを必ず開いていました。と言って見える両眼ではありませんでした。担当の看護士さんがこのことに気づき「この人は全部分かっている」と言ったひとことを聞いて、感動したことでした。
私たちボランティア友の会会員は、奉仕を通じて、とても大切なことを学ばせていただいていることを有り難く思っていることです。