祓い

道ごころ 平成25年6月号掲載

 「祓いは神道(しんとう)の首教(しゅきょう)なり」との御教(みおし)えのように、全国の神社において、いわんや私どもの日々の御神前のつとめ、祈り、祭典においても、神事(しんじ)のほとんどが祓いであると申しても過言ではありません。御祭りのときなど、まず「祓(はらえの)詞(ことば)」の奏上に始まり「大麻(おおぬさ)行事、塩水(えんすい)行事」そして「大(おお)祓(はらえの)詞(ことば)」の唱和と、祓いの時が重ねられます。
 一方、日常生活におきましても祓いの大切は強く訴えられてきました。「心の祓い」、「常祓(じょう ばら)い」の大事です。「腹を立て物を苦にする事」をはじめ、心の「罪けがれ」は、今日(こん にち)のストレスと称される心の問題も含めて際限がありません。ここに、心身の健康のためにも祓いの大切なことが分かります。
 日常の心の祓いは、次の二つの御神詠の実践につとめることです。

有り難きことのみ思え人はただ
     きょうのとうとき今の心の
 よきことはつとめてもみな取り給え
     あしきことをばはらい給えよ
          これみな心の祓いなり

 いずれも教祖神のご体験から生まれた御歌ですが、特に「有り難きことのみ思え」は、お若い頃、重症の肺結核の御身で最期(さいご)のお別れにとのお思いで御日拝をなさって御心(みこころ)に明かりが入り、明日をも知れない病床で休みなくつとめられた心の用い方が生々しく詠まれている御神詠です。ここにご自身がおかげをいただかれる心の器ができていったのです。実に、切れば血がほとばしるような御神詠です。
 「よきことは」の御歌は、とかく“これさえなければ……”と自分に都合の悪いことを取り除くことに心が向きがちな私たちですが、いわばマイナスの持つ吸引力とも言えるものにとらわれて、大切な「よきこと」と言える嬉(うれ)しいこと、喜びの数々さらには有り難いことを見逃(のが)しがちな私たちへのご注意です。「よきことはつとめてもみな取り給え」と仰(おっ)しゃって“悪(あ)しきことをつとめ皆”と言われていないところに注目していただきたく思います。それは対人関係においてもしかりで、出会う人の「よきこと」を認め称(たた)える日々を目指してまいりましょう。そして特に心掛けるところは、「笑いは祓いなり」の御教えです。日頃の笑顔はもとより高笑いといわれるような笑いは、大きな心の祓いとなります。
 また「祓い」のもうひとつ忘れてはならないことは、習慣的にさらに惰性的にさえなりがちな日常生活から離れて、まさに祓われた目で物を見、既成の考えを祓って真っさらな心で感じ考えることの大切さです。
 このことについて、ここにあらためてお知らせしたく思います。
 かねて親しくしています美術家高橋秀・藤田桜ご夫妻が、イタリア・ローマでの40年余の生活を引き払って帰国して、倉敷市玉島の沙美(さみ)海岸に住まうようになって10年になります。ここで様々(さまざま)な美術活動を展開されていますが、中でも多額の資金を提供しての「秀桜(しゅうおう)留学基金」の創設は実に奇特なことで、毎年公募して選ばれた3人の若き美術家たちが一年間海外に送り出されています。これは高橋画伯夫妻の実体験に基づくもので、秀氏が若き日、安井賞という文学界における芥川賞に匹敵する大きな賞を受けながら、その栄誉に甘んじることなく直ちにイタリアに出発し、しかも画家としての生命とも言える絵筆を一年間一切持たなかった体験がひとつの大きな元となっています。
 絵を画かないという画家としての飢餓(きが)状態に自らを追い込むことによって、一年の後、肚(はら)の底から噴き出るような生命感あふれる作品が生まれることとなりました。
 同時に、お二人は日本を離れてわが国の真の良さ、尊さを強く感じ取られたのでした。それは、昔から言われる“親孝行したいときには親はなし”また“病気になって健康の有り難みを知る”にも似た、日本を離れた歳月が教えてくれる日本の素晴らしさでした。
 今年で7回目となるこの留学制度は今まで20名の若き美術家を送り出し、その一年間は字のごとく“学を留(とど)め”て自らの内に湧き出るものを待つ時間ともなっているようですし、一様に、わが国を想(おも)う心を強くして帰って来ています。
 秀氏は、その授賞式の度ごとに海外に出る若き美術家に、「絵筆を持たずに遊んで来い」、「美術家の感性でもって日本を感じて来い」とはなむけの言葉を送っています。
 よくお話しすることですが、食事をおいしく食べるためにはその食べ物の美味なることもさることながら、食事をする本人のおなかが減っていることが大切です。空腹感こそ最高においしくいただけるために必須です。祓われた心というのはこの空腹感にも似ていないでしょうか。自らを空っぽにしてまさに無心無我のときの湧き上がるような感動、感激こそ尊い心です。真に生きている、生かされているという感謝の思いが満ちてきて、その自分にまた感動することです。
 御教語の「我を離れよ」は、こういうことをも教えられているように思います。
 いよいよ立教二百年の年を半年後に控えた今日、「黒住の袋に入るな」との教祖神のご忠告をかみしめつつ、「根をしめて風に従う柳かな」の御教えのごとく、二百年の深根の上に立って、時代の風という風に逆らうことなく、この風をほしいままにするくらいの気概をもって立教二百年を迎えたく切望します。
 そのためにも、大きな「祓い」を自らに課して日々を重ねてまいる所存です。