京都・神楽岡宗忠神社ご鎮座150年
    黒住教、江戸末期から明治への奔流 その4

平成24年11月号掲載

13、青山御所(ごしょ)での吉備楽演奏会と明治(めいじ)天皇への御前(ごぜん)講演

 明治維新(いしん)なって、ようやく世情(せじょう)も落ち着いてきた頃の明治11年(1878)、英照皇太后(えいしょうこうたいごう)(孝明(こうめい)天皇御后(おきさき)――若き日は九條夙子(あさこ)姫)は、明治天皇皇后を招き、青山御所(東京)で吉備楽演奏会を開催されています。“七卿落(しちきょうおち)”で長州(山口県)に流されていた三條實美公(さねとみこう)もすでに復活して、後に維新の元勲(げんくん)と称(たた)えられるほどの活躍中でしたが、公も陪席(ばいせき)しています。
 明治16年(1883)、明治天皇の勅命(ちょくめい)により、教団を代表して山野定泰(さだやす)高弟が御前講演をつとめました。先の吉備楽演奏会といいこの御前講演といい、いずれも孝明天皇にご信仰を賜ったことが故(ゆえ)のことと拝察いたします。
 山野定泰高弟の立像(りつぞう)(岡山県久世町)の下には、次のように刻(こく)してあります。
 「日本神道に就(つ)いてと題する御前講演を命ぜられ天顔咫尺(てんがんしせき)(天皇陛下のすぐ近く)の光栄に浴(よく)す」。
 黒住教の教えということではなく、「日本神道」についての御前講演であることに深い意味を思います。それは、教祖神ご昇天直後から展開された、赤木忠春高弟らの決死の布教が成就(じょうじゅ)なったことをご奉告(ほうこく)申し上げるべく、二代宗信様を中心に斎行(さいこう)された「伊勢千人参り」を想起(そうき)させます。この時、伊勢神宮で迎えた外宮(げくう)の神官で今に国学者としても名高い足代弘訓(あじろひろのり)師が「神道の大元(おおもと)はここ伊勢だが、教えの大元は備前の中野なり」と言い、それ以来、教祖神ご降誕(こうたん)、ご立教の地である備前の中野を「大元」と称(しょう)するようになったのです。しかも、神道のことを明治の初期「大教(だいきょう)」と称していたことから、本教の本部教会所が「大教殿」と名付けられているのもむべなるかなと思います。
 明治天皇の御製(ぎょせい)に、
 くもりなき朝日のはたにあまてらす神のみいつをあふげ國民(くにたみ)
がありますが、この御歌を拝誦(はいしょう)しますと、
孝明天皇の、
  玉鉾(たまほこ)の道の御国(みくに)にあらはれて日月とならぶ宗忠の神
に続く深い感慨(かんがい)を覚(おぼ)え、厳粛(げんしゅく)な思いに浸ります。
(「くもりなき朝日のはた」とは、国旗「日の丸」のことです)

14、孝明天皇20年祭 明治20年(1887)

 明治20年(1887)1月30日、厳寒(げんかん)の京都に、英照皇太后は明治天皇皇后ら皇族方と京都に入り、神楽岡・宗忠神社において「孝明天皇二十年祭」を斎行(さいこう)されています。
 かつて孝明天皇崩御(ほうぎょ)に際し、その御陵(ごりょう)(天皇陛下の墓所)は吉田山にと願われた英照皇太后であったことが伝えられていますが、このことを裏付けるに足る20年祭であったといえましょう。
 孝明天皇御陵は、歴代の天皇陵の多い京都東山連峰の南端に近い泉涌寺(せんにゅうじ)の山深い所に鎮座されています。明治30年(1897)の英照皇太后崩御に際し、明治天皇はその葬祭式に使われた幄舎(あくしゃ)(参拝者のための建物)を、孝明天皇陵の西少し下の所に設(しつら)えられた皇太后御陵の前への移築を命ぜられ、それは今も静かに建ち続けています。明治45年(1912)、宗忠神社の改築に当たり、拝殿はこの英照皇太后御陵の幄舎を大きくした形の建物となりました。今の拝殿がそれです。

15、日露(にちろ)戦争日本海海戦 明治38年(1905)

 幕末(ばくまつ)、ペリーのアメリカをはじめ西洋列強の圧力を見事にかわし開国して明治時代に入ったわが国にとって、最大の国難はロシアの南進でした。今日(こんにち)と違って海が主要な通路であった当時、ロシアのような北国にとって不凍港(ふとうこう)を持つことは国の死活問題でした。洪水(こうずい)が河川(かせん)の弱い土手が崩れて始まるように、その頃の中国の清王朝(しんおうちょう)、朝鮮半島の李(り)王朝は内乱が続き、ロシアの付け入るところとなっていました。地勢上、朝鮮半島を日本列島に突き付けられた“匕首(あいくち)(短刀)”と見なした日本は、本国防衛のためにロシアに対して立ち上がらざるを得ませんでした。
 明治37年(1904)正月、明治天皇は、
 よもの海みなはらからと思ふ世になど(なぜ)波風(なみかぜ)のたちさわぐらむと詠(よ)んで平和を願い祈られましたが、いわゆる日露戦争は始まってしまいました。そして東郷平八郎連合艦隊司令長官率(ひき)いる日本艦隊は、世界最強のロシア・バルチック艦隊を日本海に迎え撃(う)つこととなりました。
 当時、東京の本教教会所所長は岡田敏(とき)子という女性教師で、その下に東郷氏のご母堂やご夫人がお参りしていましたから東郷氏は本教のことをご存じでしたし、何よりも江戸末期の危機的な時の孝明天皇の御道信仰もあって、東郷氏は教祖神の御教(みおし)えに戦争に臨(のぞ)む心構(こころがま)えを求めてきました。岡田所長は教団本部から森住豊次郎(もりずみとよじろう)先生を招き、東郷氏への御道講義がなされました。氏はその時にいただいた教祖神御神詠、
 身も我も心もすてて天地(あめつち)のたったひとつの誠ばかりに
を、まさに金科玉条(ぎんかぎょくじょう)として、バルチック艦隊と戦う旗艦三笠(きかんみかさ)の上で、朗々と吟(ぎん)じ続けて指揮を執(と)ったと伝えられています。
 こうして奇跡的な勝利を得たわが国は、ロシアによる植民地化を逃れることができたのでした。

 わが国の長い歴史において、国の危機的な時に天皇陛下のご存在がいかに大きいかは、昨年の3月11日の大惨事に際しての今上陛下のご言動を見ても分かることですが、特に維新前夜の孝明天皇のことは、学問的にも研究を深めていただきたいところです。

 天命直授(てんめいじきじゅ)なって以来、まさに生きた神として悩み苦しむ人々のために「祈り、説き、取り次ぐ」ご一生を貫いた教祖神でしたが、その御日々の上に立って、わが国日本、そして世界に御心を向けられていた教祖神でした。憂国(ゆうこく)の念ほとばしる御心の現れた「玉井宮でのお説教」が、孝明天皇のご信仰をかたじけなくし、神楽岡・宗忠神社のご鎮座、公武合体、開国維新、さらに白人社会の抑圧(よくあつ)を世界で初めてはね除(の)けた日露戦争、その命運を分けた日本海海戦に至るまで、わが国の存亡(そんぼう)に深く関(かか)わるところで生き続けたことを、立教200年を2年後にした神楽岡・宗忠神社ご鎮座150年のこの年に明言できることを有り難く思います。
 なお、赤木忠春高弟の道歌二首をここに紹介いたします。
  皇神(すめがみ)の植え置き玉(たま)ふ神の苗(なえ)つくり玉へる宗忠の神
  皇神の作り玉ひし玉垣(たまがき)(宗忠神社のこと)は我なき人の社(やしろ)とは知れ

                                  (終わり)