京都神楽岡・宗忠神社ご鎮座150年
黒住教、江戸末期から明治への奔流 その2
平成24年9月号掲載
4、明治天皇の御降誕(ごこうたん)嘉永(かえい)5年(1852)
赤木忠春高弟が京都にあって布教に明け暮れていた頃の嘉永5年(1852)9月22日(旧暦-新暦11月3日)、孝明天皇に、後の明治天皇となられる睦仁親王(むつひとしんのう)がご誕生になりました。御父孝明様は、親王のご成長とご安泰、そして立派な天皇への祈りを込めて、その胞衣(えな)(胎盤)(たいばん)を吉田神社の大元宮(だいげんぐう)に隣接した東側に埋めて胞衣塚(えなづか)をつくられました。
吉田神社は皇居(現在の京都御所)の真東に位置する吉田山の中腹に鎮座し、千年の都京都にあって、全国の神社の事務本庁的な役を担(にな)っていました。その精神の表れでありましょう、ご本殿の東南の高台に、全国の神社の御分霊(ごぶんれい)を斎(いつ)きまつる大元宮をおまつりしていました。多くの天皇陛下の胞衣塚は皇居内にあるのに、明治様の場合は、明らかに全国の神々のご守護(しゅご)を願い祈ってつくられたこの地への胞衣塚でした。(なお、去る7月28日、明治天皇百年祭記念式典が明治神宮会館(東京)で斎行され、副教主が参列いたしました)
5、「宗忠大明神(だいみょうじん)」の神号を賜る 安政(あんせい)3年(1856)
仏教で徳の高い僧に朝廷から贈られる“大師”“国師”や“禅師”に対して、神道では“大明神”“明神”“霊社(れいしゃ)”“霊神(れいじん)”の四つの神号がありました。名君の誉(ほま)れ高かった岡山藩主池田光政公にして賜ったのは霊神号ですのに、その守護神社の神職であった教祖神に最高位の大明神号が下賜(かし)されたのですから、社会的には一大事件でありましたし、本教にとりましてはいよいよ教祖宗忠神が公式に神と認められた画期的(かっきてき)なことでした。一教団の中でのことならともかく、公(おおやけ)にしかもご昇天6年にして朝廷から、すなわち孝明天皇から「神」と公認されたのでした。時に安政3年(1856)3月8日でした。
その陰には赤木高弟の活躍はもとより、九條尚忠(ひさただ)公をはじめとする後に江戸時代最後の関白となる二條齊敬(なりゆき)公ら数多くの公卿(くぎょう)方の信仰も力となっていました。この時、当時の教団の中心的な存在として赤木高弟を支え続けたのが、前述(先月号)の倉吉の舩木甚市(ふなきじんいち)氏でありました。
6、皇居に「御日拝所(ごにっぱいしょ)」ご新設
今も京都御所の詳細(しょうさい)図面に載っていますが、天皇陛下のご私邸といえる「御常御殿(おつねごてん)」の御庭に、安政2年(1855)を過ぎた頃、孝明天皇は御日拝所を設(しつら)えられました。玉石が円座のように敷(し)かれていて、そこで孝明様は、ご日常のお祈りに先立ってまず御日拝をおつとめになっていたということです。この御日拝所ができたのは、まさしく赤木高弟が御前講演申し上げた後のことでした。孝明天皇から賜った御製(ぎょせい)の「日月(ひつき)とならぶ宗忠の神」をそのままに、毎朝、天地の親神天照大御神(あまてらすおおみかみ)への熱いお祈りから一日を始められた孝明天皇であったことが分かります。まさに「天照大御神の御開運を祈る」祈りを捧(ささ)げられていたと拝察いたします。それは、江戸の大火をはじめ相次ぐ大地震、加えて迫り来る西洋の列強からわが国を守るというご一念からのお祈りだったのです。
7、神楽岡(かぐらおか)・宗忠神社ご鎮座 文久(ぶんきゅう)2年(1862)
「宗忠大明神」と公に認められた教祖宗忠神をおまつりする、その名も「宗忠神社」ご造営が始まりました。
元の関白九條尚忠公、関白二條齊敬公ら十名を超える公卿方が赤木高弟を支え続けられ、その後を追うように数多くの地元京都の人々をはじめ教団内の方々のご苦労、誠ごころが結集してのご鎮座でした。時に文久2年(1862)2月25日、すなわち教祖神の祥月命日(しょうつきめいにち)、十二年祭の当日(とうじつ)でした。
場所は吉田神社の東南の高台、ということは前述の大元宮、明治天皇の胞衣塚を更に東南に上がった所を、吉田神社から提供されてのご鎮座でした。時は、明治天皇ご降誕ちょうど十年後の年、しかも、恐れ多いことですが、孝明天皇の勅命(ちょくめい)(天皇陛下のご命令)によってこの地にご鎮座なった宗忠神社であったと確信することです。
ここは、古くから“ 日降山(ひふりやま)”また“神座(かみくら)”と呼ばれ、この“かみくら”が「神楽岡」と称されるようになったといわれるまさに神聖な場所です。今日(こんにち)も、東を見ますと北から比叡山(ひえいざん)、大文字山、そして南に連なるいわゆる東山三十六峰が一望でき、南に目をやりますと京都市内を見晴るかす京洛(きょうらく)一の地です。
実は、教祖神はご生涯六度の伊勢参宮(いせさんぐう)をおつとめになっていますが、かつてこの地を御自らお歩きになっているのです。このことは、二回目の参宮となります御歳45の文政7年(1824)の時で、教書の「伊勢参宮心覚(こころおぼえ)」の項に残されています。「…… 先(まず)、吉田(吉田神社)、日本六十余州(よしゅう)御神を勧請有(かんじょうあり)し霊地(大元宮)拝し、それより真如堂(しんにょどう)、黒谷(くろだに)へ参り……」とあります。真如堂とは宗忠神社の真東にある真言宗の名刹(めいさつ)で、黒谷はその南にある浄土宗の大寺です。
この御文でも分かりますように、教祖神は宗忠神社ご鎮座38年前の文政7年3月19日に、吉田神社から大元宮に参られ、御自らの御宮の建てられる御地を歩いていらっしゃるのです。このこと自体が、人智を越えたまさに御ご神慮(しんりょ)大御神様のおはからいで、神楽岡・宗忠神社ご鎮座の意味の深さを思い知らされます。
8、皇女和宮様降嫁(こうじょかずのみやさまこうか)文久元年(1861)
尊皇派(そんのうは)と佐幕派(さばくは)といわれるように、この時代、皇室側と幕府側に二分されるような動きが顕著(けんちょ)でした。その上に、迫り来る西洋の列強と戦うべしとする攘夷派(じょういは)と、鎖国(さこく)を解いて外国と交流すべしとする開明派といわれる開国派とが入り乱れて、実に複雑な世相の中にありました。
長きに亘(わた)った江戸時代、皇室と幕府、いわば京都と江戸は決して良好な関係ばかりではなかったようで、とりわけ孝明天皇は徳川幕府に対して反感ともいえる思いをお持ちのようでした。そういう孝明様にもかかわらず、妹君和宮様の将軍徳川家茂(いえもち)とのご結婚を許されたのですから、そこには、尊皇も佐幕もないわが国はひとつなのだと内外に、とりわけわが国周辺にやってきていた西洋の列強に宣言された一大ご決心だったと思われます。
ここに「公武合体(こうぶがったい)」はなりました。天地の親神天照大御神へのご信仰、日々、御日拝から一日の祈りを始められた孝明天皇の、一段と高みに立たれてのご聖断であったと拝察いたします。
そういう中で着々と進められた神楽岡・宗忠神社のご創建でありました。