私の神道観
平成24年6月号掲載
教主様は、神楽岡・宗忠神社の程近くにある京都大学文学部哲学科のご卒業で、現在、岡山県在住の同窓生で構成される「岡山京大会」の会長をお務めになっています。また、同大学文学部の卒業生の会の「以文会」にも加わられていて、その岡山支部一〇〇年史の作成に当たり、教主様には一文を依頼されました。
今号の「道ごころ」には、そのご寄稿文を掲載します。 (編集部)
のっけから突飛(とっぴ)な例えで恐縮ですが、日本人の最も好きな食べものに“にぎり寿司”があります。それは、わが国の文化が凝縮されているからだと言った人があります。魚という狩猟採集の縄文時代と、米という稲作の弥生時代がひとつになっているからです。従って口に入れるときは、“弥生”の米を上に“縄文”の魚を下にして、舌に乗せて食べるのが正しい作法だというわけです。
このことは実に言い得て妙で、わが国は一万年とも言われる縄文文化と、それを土壌にした弥生文化との両文化を基層に、今日に至る歴史を重ねてきていることを象徴しているように思います。
久しく、縄文時代は未開の原始時代と思われていましたが、その間でも、名の通りの縄目文様や渦巻文の土器また火焔(かえん)土器を通じて、縄文人の生命力の強さ、その秀でた作陶技術は誰しもが認めていました。しかし、周知のごとく最近の進んだ考古学は、「縄文のヴィーナス」と名づけられる土偶を見つけ、古くから西洋社会でジャパンと称されてきた漆を使った木工品、さらには高度の技術からなる巨大建築群の青森県三内丸山(さんないまるやま)遺跡を発掘、また地元岡山の縄文遺跡で六千年前の稲籾(もみ)を発見するなど、未開どころか極めて高い文化を培(つちか)っていたことを明らかにしてきました。
このような縄文人の生活臭ふんぷんとする遺物を見、手にするにつけても、この人たちが強烈なとも言える信仰心の持ち主であったことが伝わってきます。
前述の「縄文のヴィーナス」にしろ、それは多くの古代民族に見られる多産安産を請い願う祈りの証でしょうし、各地の縄文遺跡から発見される無数の土偶からは、今に続く先祖崇拝の心根が見えるようです。激しい情念が伺える火焔土器、どろどろとした怨念の塊のような渦巻文の壺などからは、外敵から身を守り、いわゆる祟(たた)りなど恐怖から逃れたい一念からの強い祈りが見てとれます。
考えてみますと、それは当然のことで、今日の私たちは様々(さまざま)な文明の利器、築き上げてきた社会制度に守られて無事安全な生活ができていますが、この時代の人たちにとって身の安全また安心は実に危ういものであったわけです。狩猟採集を主とした食糧事情は非常に不安定であったでしょうし、病はもとより獣の襲来、獲物を中に人間同士の争い等、身に迫る危険は私たちの想像を絶するものだったでありましょう。
近年、縄文時代が見なおされるにつれて、その自然と同化した生活を称(たた)えるような声も耳にしますが、決して理想郷であったとは言えないと思います。それは、縄文土器のたくましさの裏に、陰惨なとも言える暗さが伺えるからです。たくましくなければ生きていけない、しかし、それは常に死を背にしたこの上ない不安定な日々であったと思われます。
このような年月の末に水田稲作が渡来し、それは短期間の内に南から東へ北へと日本列島に広がっていったようです。高カロリーのしかも保存の効く米を得て、ようやく人々は飢えの恐怖から解放されたのではないでしょうか。人口も爆発的に増えていきました。
弥生土器の持つ明るさ、たくましいですがそれは他を圧倒するようなものと違って、まるで乳飲み児を胸に抱いてどっかりと座りこんだ母親のようなたくましさは、弥生の人々の安心の心を伝えてくれます。“天地の命が込められているからコメ”と言い、“命の根だからイネ”と言われるようになったように、水田稲作は人々の生活を一変させました。田圃(でんぽ)を作り水を引き、籾を蒔(ま)き田植えし、虫はもとより雨風から田を守り秋の取り入れを待つ、多人数で長時間に亘(わた)る社会生活です。まさに人と人との絆を大切に、和を尊ぶ大和の心の始まりです。
一粒の籾が大地に蒔かれると天に向かって緑の芽が出、地に向かって白い根が伸びていきます。やがて花咲き、秋には何百倍もの稔(みの)りとなるわけです。弥生の人々は素朴ながらそれだけ純粋に感じ入り、大地に水に風にそして太陽に霊妙なる働きを見、畏敬と感謝の念を抱いたのです。この感動感謝のいわば「ありがたい!」の心が、そのまま弥生の土器になっているのを感じます。
感謝の信仰が始まったのです。
今日に伝えられる氏神様の春の祭礼は、豊作を願い祈っての祭りであり、秋のそれは、豊作を喜び祝い感謝しての祭りなのです。
人々はいまだ地べたに生活していたにもかかわらず、米はまさに“お米”として高床(たかゆか)の蔵に貯えられました。それは湿気を避けるためであり、高床の柱には鼠除(ねずみよ)けまでつけられたようです。
この米蔵が、構造的にはそのまま今日に伝えられているのが伊勢神宮の正宮(しょうぐう)であり、そこには大自然の命の元たる「天照大御神(あまてらすおおみかみ」がまつられ、その境内には「土宮(つちのみや)」「風宮(かぜのみや)」等も鎮座しています。
しかも、一年ごとに同じ作業を繰り返す米づくりそのままに、社殿のすべてをほぼ二十年毎にそっくりそのままに造り替える「式年遷宮」が千三百余年にわたって続けられ、来年の平成25年秋、62回目の式年遷宮祭が執り行われる伊勢神宮です。
毎朝日の出を迎え拝(おろが)む「日拝」を一日の始まりとしています私には、お日の出前後の三十分間足らずは、清々(すがすが)しくも厳かなしかも生命感あふれる時間です。それは、あたかも縄文時代末期に水田稲作が始まって安定した生活を得た先人の心にも似て、実にピースフルなひとときです。
古来「高天ま原(たかまのはら)」と言われるのも、「場」としてもさることながら、「時」も言うのではないかとさえ思うことです。