ご鎮座150年の京都神楽岡・宗忠神社

平成24年1月号掲載

謹賀新年
 今年は、京都神楽岡・宗忠神社が文久2年(1862)にご鎮座なって150年の記念祝祭が斎行される年で、来年の伊勢神宮式年遷宮、そしていよいよ平成26年の立教200年大祝祭、さらに27年の大元・宗忠神社ご鎮座130年記念祝祭と、うち続くまことに尊い御祭りの最初の年になります。
 のっけから私事にわたって恐縮ですが、私は56年前の昭和31年から4年間、神楽岡・宗忠神社の離れに下宿させてもらって学生生活を送りました。いわば宗忠神社にご拝せずには行き来できない日を重ねていました。
 大学2年の時でした。いわゆる“教養”といわれた授業の日本史の時間で、柴田實という教授が、明治維新前夜の孝明天皇について話されました。それは後に思いますのに、当時の学生に、わが国において天皇陛下のご存在がいかに大きく重いかということを教えようとされたのだと思います。
 先生は「蛤(はまぐり)御門の変」について話されました。幕末の元治元年(1864)7月、長州藩からの兵と幕府方との戦いが、皇居(現京都御所)の西側の門いわゆる蛤御門辺りで繰り広げられました。孝明天皇の側近の間では比叡山にご動座いただく準備もできていたようですが、陛下は動こうとされませんでした。先生は「歴史に“もしも”と仮定することは許されないことだが、敢(あ)えて言うならば、もしもこの時に孝明天皇が動座されたならば、皇居はもとより京都の街は灰になるほどの一大事になっていただろうし、わが国の周辺にやって来ていた外国の付け入るところとなっていただろう。さらには、明治維新の実現も遅れていただろう……」というような話をされました。
 その頃の宗忠神社宮司は父五代様令弟の忠利叔父で、神楽岡中教会所所長と兼務でつとめていました。その夜、叔父に柴田先生の講義を話しましたところ「その蛤御門の変の時こそ、この宗忠神社は大いなるご神慮を賜ったのだ」と言って、秘話とも言うべき話をしてくれました。
 「関白二條齊敬(なりゆき)公をはじめ側近方が、孝明天皇の比叡山へのご動座を再三申し上げる内、陛下から“宗忠大明神のご神意はいかに……”とのご下問があった。この蛤御門の変の2年前に宗忠神社はご鎮座になっていたが、その時の中心人物の一人である二條関白は“そうだった”とばかりに二條家に仕える櫛田左近将監に早馬を駆って神楽岡に走らせてご祈念を申し出られた。御神前にあって熱い祈りに徹した赤木忠春高弟から“主上ご動座ご無用! 動かれると京の街は火の海となりますぞ!”とのご奉答だった。その時を待っていたかのように争いは鎮まった」と。私は、翌日、柴田先生を研究室に訪ねて叔父から借りた書類を持ってこのことを申し上げました。先生がまじまじと私の顔を見つめられたのが、印象深く今に残っています。
 30年前の昭和57年5月16日、新緑の中で神楽岡・宗忠神社ご鎮座120年祝祭が斎行されました。それより2年前の昭和55年の秋、神道山で5回に亘(わた)った教祖神ご降誕200年大祝祭に、それぞれ当時のわが国を代表する宗教者のお参りをいただきましたが、その中の御一人が伊勢神宮大宮司の二條弼基(たねもと)様でした。この方は関白二條齊敬公の令孫でした。このご縁から、神楽岡の“120年”にもお参りいただくべく祝祭前日の15日に京都へおいでになるよう準備を進めていましたら、下鴨神社の鈴木義一宮司から、15日の「葵(あおい)祭」に大宮司様をご案内してほしいとのことで、伊勢から一日早く京都にお入りいただきました。鈴木宮司は父五代様の國學院大学の同期生でお親しく、私も子供の頃から目をかけていただいていました。
 おかげで、葵祭という京都で最も美しい御祭りの本祭典に、神宮大宮司様の御供(おとも)ということで御本殿を目の前にした所での参拝の栄に浴しました。祭典が終わった時、私の肩をポンとたたいて「黒住さん……」という声です。振り向くと白髪になられていましたが、紛(まぎ)れもなく柴田實先生でした。25年ぶりの再会でした。しかも、二條関白の令孫大宮司様の御供をしての再会でした。私は尊いご神慮におののくような気持ちで、御二方をご紹介いたしました。翌日の祝祭の斎主としての挨拶(あいさつ)は、言うまでもなくこの有り難いお出会いからお話ししたことでした。
 孝明天皇の御道とのご縁は、赤木高弟の“お取り次ぎ”で、大病の本復というおかげを受けられた関白九條尚忠(ひさただ)公のご息女夙子(あさこ)姫が、すでに陛下の皇后の立場にあられたことに始まります。
 皇居に召されて御前講演をつとめた赤木高弟に、

  玉鉾(たまほこ)の道の御国(みくに)にあらはれて日月(ひつき)とならぶ宗忠の神

との御製(ぎょせい)を賜ったのです。日月はすなわち天照大御神です。しかもその後安政2年(1855)頃、孝明天皇は「御日拝所」を御庭内に設(しつら)えられて、日々の御拝の厳修に加えて御日拝を欠かされなかったと伝えられています。まことに有り難い極みです。その頃若き三條實美(さねとみ)公ら次々と入信した公卿方の中心は、九條公と二條公という元関白、現関白であったわけですが、特に齊敬公の二條家日記には次のようにあります。
 「此(こ)の度、畏き思召(おぼしめし)により宗忠神社へ勅願所(ちょくがんしょ)(天皇陛下の命により国、国民の平安を祈る社寺)仰せ出さるる旨(むね)を伝達なされ……」。勅願所に仰せ出されたのは、蛤御門の変の翌年、慶応元年(1865)のことでした。
 「孝明天皇紀」の慶応元年4月18日付には、「関白二條齊敬、内旨(内々の指令)ヲ承うケテ神楽岡宗忠神社ノ社人ニ國(こっか)安泰ヲ祈ラシム」とあります。
 尊皇派と佐幕派、開国派と攘夷(じょうい)派が入り乱れ、その上、アジアの国々を植民地化した西洋の列強が迫り来る、まさに内憂外患の江戸時代最末期でした。
 孝明天皇の御宸襟(ごしんきん)(御心)が拝察されます。

  あさゆふに民やすかれと思ふ身の心にかかる異國(とつくに)の船
  我命あらむ限りは祈らめや遂(つい)にはかみのしるしをも見む

当時の御製です。
 吉田松陰は、孝明天皇のご日常を伺って次のように書き残しています。
 「墨夷(ペリーのこと)来航(嘉永6年-1853) 已来(いらい)は、毎晨(まいあさ)寅の刻(午前4時)より斎戒(さいかい)(心身を清めること)ましまし、敵國懾伏(せつふく)(おそれ従う)、萬民安穏(ばんみんあんのん)御祈願遊ばされ、かつ供御(くご)(お食事)も両度の外(ほか)、召し上げられず候(そうろう)」。
 しかし、このまさに麻のごとく乱れようとするぎりぎりのところで、わが国は天皇陛下を中心にひとつになって明治維新という大業を成し遂げたのでした。実は神楽岡・宗忠神社のご鎮座について重要なことは、先年この項でもご紹介いたしましたが、私どもとしましては最近知った、明治天皇の胞衣(えな)塚(胎盤を埋めた塚)のことです。千年の都京都にあって、全国の神社を取り仕切っていた吉田神社は、その東南の高台に大元宮(だいげんぐう)という全国の神社の御神霊をまつる神社をまつられていますが、この大元宮に直に接するようにその東側に明治天皇の胞衣塚がつくられたのは嘉永5年(1852)、明治様ご降誕の直後です。御父として、厳しい時代に天皇になられる男子“明治様”への全国の神々のご加護を願われてのことに相違ありません。その東南の高台に宗忠神社がご鎮座なるのは、それから10年後の文久2年(1862)ですから、これは、孝明天皇の勅命によると申し上げても過言でないと、まことに恐れ入ることながら確信していることです。
 御身を捨てて明治という新しい時代を切り開かれた孝明天皇の御宸襟が、いずれ今日の世に明らかになる時が来ると信じています。
 お道づれの皆様に、神楽岡・宗忠神社ご鎮座150年の意味を、よくよくかみしめていただきたく切望することです。