人となるの道・神となるの道(下)

平成23年12月号掲載

 川崎医科大学(倉敷市)初代救急医学教授の小濱啓次(こはまあきづぐ)先生著「医学的な死とは何か、死をどう迎えるのか」に、教主様が要請を受けて執筆された一文を3カ月に分けて転載してまいりましたが、今号が締めくくりとなりました。あらためて、本誌10、11、12月号を通して拝読し、本教の“死生観”について学ばせていただきましょう。  (編集部)


 閑話休題=その一

 16年も以前のことですが、ダライ・ラマ法王招致委員会からの依頼を受けて本教がお迎えしたとき、法王は日本の仏教ではなぜ何度も葬儀を行うのかと尋ねられました。いわゆる7回忌とか、13回忌のことを言われたのでした。それは霊(みたま)が成仏するためと申しましたら、「成仏?それは死んでからでは遅い。生きている内に仏の教えを身に体することが成仏だ」との答えでした。お釈迦様の教えが最も色濃く伝わり残っているといわれるチベット仏教では、49日の法要が終わると霊は輪廻(りんね)転生して他に生まれ変わるから拝んでも意味がないということなのです。そういう仏教が東北アジアを経てわが国に伝えられ、仏教、神道と姿形は異なっても日本教ともいえる独自の信仰を形成しているのは、太古の昔から人は亡くなっても無いのではなく、形は無くても生きて子孫を護(まも)ってくれているという、わが国には先祖教ともいえる先祖崇拝の信仰が脈打っていたからではないでしょうか。


   =その二

 数年前、私は「時と時間」と題したフォーラムで聞いた一人の文化人類学者の話が忘れられません。
 「ある地域でのことです。ここでは子供のない夫婦は、養子を迎えてまでして○○家という“家”を大切にしています。それは、いずれ自分が死んでも将来生まれ変わってくる器としての“家”を保つためです。こういう信仰のここの人々は、とても穏やかで平和的な暮らしを続けていました」。私は「それは、かつてのわが国日本ではありませんか」尋ねましたが、先生はにっこり笑っただけで答えはありませんでした。


   =その三

 ある産婦人科の先生は、膨大な数の赤ちゃんを取り上げた経験から「赤ちゃんは両親を選んで生まれてくる」と語っていました。
 天照大御神という、会社でいえば大会社の本社員の一人だった私は、誕生日の昭和12年9月18日から十月十日(とつきとおか)遡(さかのぼ)る昭和11年の12月初め、両親の黒住宗和、千鶴子を通じて人生という支店に派遣されたのではないか。そして現在、わが人生という滑走路を走り続けていて、いずれ死という離陸のときを経て、本社に帰任し、本社員としての役を担わされるのではないか……と期待しますと、死に至る痛み苦しみもまた死も楽しとなるのではないか、と思っています。


 信仰の極致

 実は、黒住教信仰の目指すところは、宗忠教祖の次の歌、文に集約されます。

 「天照らす神の御(み)こころ人ごころひとつになれば生き通しなり」
 「道に入り給う人はご一生の御事ばかりにあらず、天地あらんかぎりの御事なり」
 「限りなきいのちの道を導かん重ね給えよ萬代(よろずよ)までも」
 「天照大御神のお膝元までご案内いたす。皆々様ついておいでなされ」

 申し上げるまでもなく、人は死ぬために生きているのではありません。しかし、いずれ死という厳粛なときを迎えるお互い、いかに生きるかは、いかに死ぬかに直結しています。
 まさに
 「人となるの道すなわち神となるの道」
ひと筋に歩む一人でありたいと、私自身強く願っているものです。

(完)