人となるの道・神となるの道(中)
平成23年11月号掲載
前号に引き続き、今号の「道ごころ」には教主様とごじっ懇の間柄である川崎医科大学(倉敷市)初代救急医学教授の小濱啓次(こはまあきづぐ)先生が上梓(じょうし)される「医学的な死とは何か、死をどう迎えるのか」に、教主様が依頼を受けて寄稿された一文を転載させていただきます。 (編集部)
分心を養う
私どもは、毎朝、日の出を迎え拝(おろが)む日拝を最も大切な祈りのときとしていますが、まず日の出を待ちながら大祓詞(おおはらえのことば)という、日本人が千年になんなんとする昔から神を拝むときに唱えてきた祈りの詞(ことば)を、下腹からの声で唱えます。そして折から昇る朝日のみ光を、まるで水を飲むように飲み込んで下腹に納める行(ぎょう)、私どものいう「御陽気修行」につとめます。物理的には空気が入ってくるのですが、実は光という大御神の神徳がわが身の深いところに直接に入ってくるのを感得する、実に清々(すがすが)しくも感動のひとときです。この感覚からしてもいえるのですが、分心は下腹に鎮まっている、従って御陽気修行は分心への最高の御供(おそな)えをしている感を抱きます。いわば、心の座が頭としますと、分心の座は肚(はら)、下腹といえると思います。
そういえば、私たちは心の働きを身体の部位を使って表現しますが、たとえば心配することを“頭がいたい”とか、“頭をゆわえる”また“胸がいたむ”“腹をいためる”と言います。その伝でいけば、腹という言葉で表現することのなんと多いかと驚きます。“腹が立つ”から“腹のきれいな”“腹黒い”“腹いせ”“腹のできた”“腹の大きい”等々、数えきれません。
わが国の先人は、腹に何か神秘的な働きがあることを体験的に知っていたように思います。武士の切腹にしても、自らの潔白を示すために割腹してその本体をさらけ出そうとしたのではないかと思われます。
この人間の本体たる分心を養う意味でも人生道場において大切なことは、人に物に誠実であることです。人をおもんぱかり、あらゆる物のいのちを大切にし、他に与え尽くすことに喜びを見いだす人でありたいものです。
“和顔愛語”という言葉もありますように、笑顔とさわやかな挨拶(あいさつ)にやさしい言動、特に「ありがとう」の一言が自然に口をついて出る日常生活です。
宗忠教祖は、「誠は“まること”の“る”が約(つづ)まったもの」と言い、誠意を尽くすその働きは、“まること”に循環して自らに帰ってくることを説きました。見返りを求めてというのではなく、結果として帰ってくるのが天地自然の働きだとするのです。
いわば、身体を養うためには取ることの多いお互いです。食事を取って栄養を摂(と)ります。
呼吸して酸素を取り入れ、睡眠までとると言います。しかし、分心への栄養は与えるところに帰ってくるものにあります。
極端な言い方かもしれませんが、与えられるのは身体の喜びで、魂の喜び、分心の喜びは他に与え尽くすところにあると思います。いわば、喜んでもらう喜びが、最高の喜びであるということです。身近なところでは、自らを捨ててでも子に尽くす親ごころです。そこに親としての真の喜びがあるのです。宗忠教祖が、「親ごころこそ神ごころ」と言うところです。
いわゆるボランティアも、日本語で奉仕と置き換えられますが、神仏に仕(つか)え奉(まつ)る心で誠意を尽くすもので、それは“してあげる”ものでなく、“させていただく”“させてもらう”誠の行為でなくてはならないと思います。
実に、「人は人に尽くして人となる」のであり、宗忠教祖はこの点をもっと徹底して、「我助からんと思えば人を助けねば助からぬものなり」と言い切っています。
神社をはじめ神道教団の神前には丸い鏡がまつられています。これは、いうまでもなく太陽、お日様を象徴していますが、この円が鏡になっているところに深い意味があります。神を拝むということは、同時にわが身に内在する心の神、分心を拝んでいるということを教えているのです。さらに、ダジャレのように聞こえるかもしれませんが、“カガミ”の“ガ”すなわち“我(が)”を除けばカミ=神になります。とかく自己中心的な生き方、我(われ)、我執に走りがちなお互いです。“ガ”ばかりが大きくなったのでは“カガミ”にはなりません。ガ=我を除くのが難しいならば、神に通じる誠、すなわち他をおもんぱかり与え尽くす心を大きくしていって、大きな“カガミ”にしていこうという呼びかけだと思うのです。
生き通し
実は、こういう姿勢での生き方の積み重ねこそ、人生という滑走路で自分自身という飛行機の機体を整え、高純度のガソリンを貯(たくわ)えることになります。いよいよ離陸という死を迎えるとき、この飛行機は“離陸の角度”も必要なく直ちにロケットのように神上がることになりましょう。仏教でいう直ちに成仏なります。
ところがこういう人はきわめて稀(まれ)で、多くの場合、機体の整備どころか飛行に不必要な邪魔物がまつわりつき、タンクには高純度のガソリンは極(ごく)わずかといった場合が現実です。ここに、宗教者による祈りの込められた葬儀、葬祭の大切なゆえんがあります。このとき、宗教者はわが身内が亡くなったかのごとき悲しみをもって祈りに入り、続いてその方の人生の良きところを“心底”から称(たた)え、そして最後に仏教でいわれる「引導」すなわち成仏して浄土に行くように、私ども神道では一柱の神として立たれるように、あたかもそこに頭(こうべ)を垂れて道を求めている人がいるかのごとく説き諭します。
いわば、機体を祓い清めて整備し、高純度のガソリンを注入するのです。宗教者の責任、また日頃の修行が問われるところでもあります。
通夜祭、葬祭に始まり、仏教でいえば初七日の法事、四十九日の忌明け、神道でいう十日祭、五十日祭、いわば飛行機が離陸して水平飛行に入るまでの離陸の角度の飛行の五十日間、祈りを込めガソリンを注入するのです。
向かう所は天照大御神の御懐(みふところ)の内であり仏教でいう浄土で、成仏し、一柱の神となって子や孫、家族の護(まも)りの神、護り仏と立つのです。
(つづく)