お祓いを上げる
平成23年6月号掲載
生前じっ懇にしてもらっていた陶芸家鈴木治氏が昇天して10年の祥月命日の4月9日、息女鈴木淑子女史をはじめ親しかった方々のお参りを得て「故鈴木治命(みこと)10年祭」を、大教殿祖霊殿で斎行いたしました。
以下は、その時に参列していたO氏との後日の会話です。
O氏:「大震災で東京のわが家も相当やられました。築30年ばかりの一戸建てですが、果たしてこれからこの家で住んでいけるかどうか迷っていることです。それにも増して、私の心の揺れはずうっと続いていました。自分でどうしようもない揺らぎに困り果てていました。そういう折から、神道山での鈴木さんの十年祭にお参りして、初めて“大祓詞(おおはらえのことば)”を唱える機会をいただきました。唱えるというより皆さんのお声について、配られていた冊子の“大祓詞”を読んだというのが、偽らざるところですが、読み進むうちに皆さんの声にも包まれて心が鎮まってくるのを感じました。不思議なものですね」
私: 「それはありがたいことでした。それこそ“お祓い”ですよ」
O氏:「あの大祓詞には、言葉の意味もさることながら“言霊(ことだま)の幸はう国”日本の、言葉の原点のような響きがありますね」
私: 「歯切れのよい母音語からなるまさに大和(やまと)言葉が大祓詞です。正式には“中臣(なかとみ)の祓い”といって、千年になんなんとする昔から先祖先人が神前に祈るとき唱えてきた“神言(かむごと)”なのです。“お祓いを上げる”と表現するのですが、大祓詞を唱えるときは、野球で“一球入魂”と言われますが、一語一語に心を込めてはっきりとした口調でつとめます」
O氏:「斎場で、十年祭をおつとめの装束姿の皆様は特にいいお声でした」
私: 「宗教に共通することのひとつは、それぞれ祈りの言葉を持っていることです。しかもいずれも声に出して唱えます。大切なことは、その祈りの言葉を腹式呼吸しながら下腹からの声で唱えることです。私どもの教えで言うならば、お祓いを上げている時、下腹に鎮まる大御神の分心(天地の親神たる天照大御神のわけみたま)から湧き出(い)ずるものが神に通じ、また直ちに同時に神前から下腹の分心に注ぎ来るものがあるのです。この実感こそ祈りの真骨頂と言えましょう。とりわけ“大祓詞”という名のごとく祓いに祓って、ということは何度も繰り返してお祓いを上げるところにそういう時に至るわけです。しかし現実にはお祓いを上げれば上げるほど雑念は止めどなく浮き出てくるものです。しかし、それはそれだけ心のゴミが祓われている証しと、いわば開き直ってひたすらお祓いを上げ続けます。そのような時間の中に、自分でも気付かないことですが、空っぽになったところに、これが無心と言える時なのでしょうか、下腹に注ぎ込まれるもの、湧き出るものとも言えましょうか、とにかく熱いものが満ちてきます。思わず“ありがたい”と、お祓いを上げながら言葉として発することはできませんが、“ありがたい”“ありがとう”と叫びたくなる時があります。ですから、私たちにとっては、お祓いを上げる時が祈りの時であり、大祓詞は祈りの言葉なのです」
O氏:「なるほど。そのためにも、大祓詞はやはり読むだけでもつぶやくようなことだけではいけませんね。仰(おっ)しゃるように下腹からの声で朗々とやらねばなりませんね」
私: 「お祓いを上げるときは、まず姿勢を整えることです。正座でも安座でもまた椅子に座っていても、腰骨を立て胸を張り、同時に肛門をきゅっと締めます。すると肩の力がすっと抜けます。その上で口をつぐんで、お臍(へそ)の下4、5センチの下腹をへこませますと、息は静かに鼻から出ていきます。こうして息を出し切って下腹を前に突き出しますと、息は鼻から静かに入ってきます。その上で口を縦(たて)に開きながら“タカマノハラニ・・・・・・”を始めるわけです。このようにつとめて、いわば気持ちのよい、さらには“ありがたい”お祓いが上がったときの後味(あとあじ)は格別のものがあります。一人でお祓いを上げるときももちろんですが、皆さんと共につとめるときはまた特別です」
O氏:「皆さんのお祓いの中に身を置き、その言葉を読み唱えながら心鎮まるとともに、懐かしい思いにも浸りました。お祓いが終わって冊子をめくって“禊祓詞(みそぎはらえのことば)”のところを読みまして、懐かしいと思ったのはこれだと気付きました。私の育った里のわが家で、祖父や父が毎朝神棚で唱えていたのがこの禊祓いでした。
改めて思いますのに、私どもは仕事のこととはいえ生家を離れて暮らすようになり、その結果、家代々大切にしてきたものを随分捨ててきたように思います。祖父や父のあの姿が揺るぎない人生の基だったのですね」
私: 「そこでお願いなんですが、あなたのご両親、また御祖父様御祖母様の年祭、仏教なら法事をぜひおつとめいただきたいのです。こうして対面して話すことも大切ですが、人間、共同作業の中に強い絆が生まれるものです。いわんや、わが先祖の霊(みたま)様を前に家族が並んで頭(こうべ)を垂れ手を合わす時、それは一家の強い絆を生む元です。そして宗教者がいのちの問題について短くとも内容の濃い説教をつとめ、団らんの会食の中で年輩者が霊様の生前のエピソードなどを、そうです、せんだって鈴木治先生の十年祭の後に皆様が交(こもごも)鈴木先生について熱く語られたように話していただくことです。そういう場に、若い人や幼い人がいるならば、そこは彼ら彼女たちにとって学校や他所(よそ)では学ぶことのできない絶好の教育の場となります」