親の大事

平成22年11月号掲載

 今年の初夏、本教の若い教師の一人が子供を授かり父親となりました。夫人は出産を前に里の親のもとに帰り元気な女の子を出産したのですが、お産を前にしての毎朝の御日拝における感動を伝えてくれていました。夫と離れているだけに毎朝、共に御日拝する思いでつとめていたようですが、お日の出を迎えると同時に、決まってお腹(なか)の赤ちゃんが活発に動いていたというのです。この話を聞いて、この赤ちゃんはきっと幸せな人生を歩むと強く思いましたし、併せていわゆる胎教の大切さを改めて思いました。
 妊娠するということは、両親の細胞がひとつになったときに、ここを器に大御神様のわけみたま=ご分心が鎮まって生命活動が始まると私たちは信じています。「道の理(ことわり)」における「心はこごると云(い)う義にて日神(ひのかみ)の御陽気が凝結(こりこご)りて心と成るなり」のところであり、子の宮(子宮)に日止(ひとど)まって日止(ひと)=人となるというところです。ですから、子供はつくるものではありませんし、まさに“授かりもの”であり、妊娠したときからまことに尊い存在なのです。
 子供を授かった夫婦に必ず話すことですが、朝に夕に幼子(おさなご)の頭をなでるようにお腹をさすりながら話し掛け、祈り込んでほしいということです。かつて流行した“こんにちは赤ちゃん”の歌ではありませんが、妊娠が分かったときから直ちに“こんにちは赤ちゃん”のお母さんであってほしいとお願いするのです。
 私の学生時代のことでした。心理学の先生が「自分はかつて老いた母親に尋ねたことがある。“いつ自分を可愛(かわい)いと思ったか”と。母の答えは“ある日、ふとお前を授かったことが分かった。その晩、私はお前がいとしくて可愛くてひと晩中お腹をなでていた……”」と話されました。教授の両眼には光るものがあったことが忘れられません。
 昔、“妊娠中に火事を見たらアザのある子供が生まれる”といったことが言われました。今日の人々には単なる迷信と片付けられてしまうかもしれませんが、子供をお腹にいただく母親はとても敏感になっています。子供を守るために、まさにご神慮で、危険を避けるべく鋭敏になっているのです。火事などを目の当たりにして、心を傷めることがお腹の子供によくないという、先人の智恵が生んだ忠言です。
 私の甥(おい)が二人目の子供を授かったときのことです。この甥は私の弟忠篤(大元・宗忠神社名誉宮司)の長男黒住忠雅(大教殿勤番)ですが、生まれた子供が男子なら忠直(ただなお)、女子なら七穂(なほ・(お))と決めていまして、出産の数カ月前から朝に夕に“なおちゃん”と夫婦でお腹に呼び掛けていたようです。するとどうでしょう。生後間もない頃から“なおちゃん”と呼ぶと目を開くなり、首がすわると顔を動かすなどしての反応があったと言います。
 一般的には、幼稚園や小学校で先生を生徒が選ぶことができないように、子供は親を選ぶことができないと昔から言われます。しかし最近では、赤ちゃんは産んでくれる親を選んで生まれてくるという説を唱える産婦人科医もあります。
 わが身に日止まった人、まさに天から、大御神様から授かったいのちを「よくぞ、私たちの所へ来てくれた。有り難う」と、朝に晩に感謝を込め、心から称(たた)えながら出産の時を待つ若き母、そしてそれを温かく支える父親であってほしく思います。
 こういう親を望むのは今日では夢物語でしょうか。いやそうではありません。本来、子を持つ親は、まさに天地自然のお働き、大御神様のご神慮でそのような心に導かれていくのです。動物の世界でも明らかにそれが伺えます。子連れの熊は恐ろしいとか、日頃おとなしい羊、鹿でも子連れのときには気を付けろとは昔からよく言われてきたことです。子を守るためには親は己(おの)れの命も惜しまないからです。
 しかし、今日、人間だけがと言ってもよいほど、こうした親ごころを失った姿が目に付きます。それは智恵と心得て、あまりにも人工的なものに頼りすぎた生活になり、天然自然の生き方から遠くなっているからと言えましょう。
 先年、テレビで見たことですが、象が動物園で出産したのですが、母親象が育児放棄どころか子供の象を踏みつけようとするので、慌てて母親から離して人間が育てているということでした。本来、大平原に住まう象ではありえないことでしょうが、セメントのオリの中という人工的な環境に閉じ込められた生活が、象の本性を歪(ゆが)めているということでありましょう。これはひとり象の問題ではなく、今日の人間の問題、特にわが国の問題だと痛感いたしました。
 私たちの日常生活から天然ものが消えて人工物になり、食べ物のほとんどに化学物質が入っている上に、親が手を掛けた食べ物も少なくなっている現実の生活です。よほど賢く、目配り気配りして生きなければ、人間本来の良さが失われる恐れがあります。
 大切なことは、私たちの天与の生命力にいかに旺盛(おおせい)にお働きいただくかを、常に生活の中心に据えた生き方を重ねることです。
 「祓いは神道の首教(しゅきょう)なり」といわれるお道信仰の基本である祓いに徹すること、ここに誤ちなき人生の極意があります。
 親自身が毎朝、洗面を済ませたら御日拝して、「御陽気をいただきて下腹に納める」ことにつとめ、夕に反省と感謝の祈りを欠かさない生き方こそ、道を取り外さない人間本然の人生の大元です。
 岡山では昔からよく言われたものです。「アホを出せと言われたら親を出せばいい」と。わが子のことになったら、欲も得もない、計算づくの生活を超えたところにあるのが親ごころであるということでしょう。ここにこそ真に賢い親があります。利口でなくて、賢い親が若い人に一人でも多くなるよう、人生の先輩としても私どもはつとめていかねばと思うことです。