明治天皇の胞 衣 塚(えなづか)
平成22年8月号掲載50年もの昔になりますが、私は京都における大学生活を終えて岡山に帰りました。昭和35年春の卒業までの4年間、神楽岡・宗忠神社に隣接する黒住教神楽岡中教会所の離れに住まわせてもらって、西山麓(さんろく)の大学に通っていました。山麓と言いますのが、宗忠神社は、京都で名にし負う吉田山の南端にお鎮まりになっていて、再来年の平成24年、ご鎮座150年を迎えます。古寺古社の多い京都でご鎮座150年というのは、有名な平安神宮に次ぐ“若い”神社です。 お道づれの大方はご存じのことですが、教祖神ご昇天後に赤木忠春高弟方の熱き布教の証(あかし)のように誕生したのがこの宗忠神社でした。 忘れもしません、昭和32年の春、大学2年の私は柴田實という日本史の教授から、「蛤御門(はまぐりごもん)の変」(1864)など江戸時代末期のことについての講義を受けました。 江戸時代最末期のこの頃、いわば明治時代という新しい時代の生みの苦しみのような中にわが国はありました。日本の周辺には、アジアの国々を食べ尽くしたような白人の国々がひしめき、有色人種の国で植民地化されていないわが国を誰(だれ)がわが物にするかと競(きそ)っているような厳しい時が続いていました。鎖国の江戸時代260余年の幕藩体制は崩れていき、西洋の列強を前に戦うべきか、鎖国を解いて開国すべきか、幕府を存続か、天皇陛下を中心とした国家体制にすべきか、国論は四分五裂(しぶんごれつ)していました。 そういう中で本教にあっては、時の天皇である孝明天皇に仕える関白九條尚忠(ひさただ)公、また江戸時代最後の関白となる二條齊敬(なりゆき)公など公卿(くぎょう)方が、次々と入信されていました。そして、ついには孝明天皇に赤木高弟が御前講演申し上げる光栄に浴し、教祖神に「宗忠大明神」という最高の神号を賜ることになり、宗忠神社ご鎮座となっていったのです。 この激動の時代を柴田先生は語りながら、蛤御門の変といわれる京都御所の西門の辺りでの戦いに触れ、この時なぜか孝明天皇は用意された比叡山へのご動座をなされなかった、と話されました。そして、「歴史に、もしもあの時……というのは禁句だが、あえて言うならもしもあの時、孝明天皇が御所を離れられていたら戦いは止めどなく広がり、京の街はかつての『応仁の乱』(1467~77)のように火の海となっていたであろう。それは同時に、周辺にやって来ていた西洋の国々の付け入るところとなって、明治維新はおろか、わが国日本もアジアの多くの国と同じように白人社会の植民地となっていたであろう」と語られました。柴田教授は昭和30年代のあの頃に、蛤御門の変を語ることを通じてわが国における天皇陛下のご存在がいかに大きいかを、学生の私たちに悟らせようとされたのでした。感動した私は、帰宅して当時の宗忠神社宮司であり教会所所長の黒住忠利叔父に話しました。叔父は神社の資料をもって、蛤御門の変に際し二條関白の急使として櫛田左近(くしださこん)という人が早馬を駆(か)って宗忠神社に駆け付け、赤木高弟の熱き祈りは「主上(天皇陛下)、ご動座ご無用!」という奉答となったこと、まさにその時を境に戦いは鎮まっていったと教えてくれました。私は翌日、柴田先生を訪ねてその研究室に伺い、事の次第をお伝えし先生も驚かれたことが忘れられません。 ちょっと余談になりますが、昭和57年、神楽岡・宗忠神社ご鎮座120年祝祭に際し、特別参拝者として時の伊勢神宮大宮司二條弼基(たねもと)様と、先代教主五代様のご学友の京都下鴨神社宮司鈴木義一様をお迎えすることになっていました。祝祭の前日の5月15日が、下鴨神社の有名な葵(あおい)祭りだったことから、鈴木宮司の依頼を受けて、二條大宮司様に一日早く京都においでいただいて葵祭りにお参りいただくことになりました。二條様ご夫妻の御供(おとも)をして下鴨神社における祭典にお参りしたとき、白髪の老人から声を掛けられました。それは25年前に講義を受けた柴田實先生でした。この日の葵祭りには、二條齊敬関白直系の二條弼基大宮司様と柴田先生が同席でお参りになっていたのでした。 本誌の前号(7月号)のこの欄でもご紹介しましたように、江戸時代末期の維新前夜の京都にあって本教は実に大きな天命を担(にな)い果たしているのです。これは、立教200年を迎えようとする本教の歴史に輝く1ページです。 ところで、昨年、平成21年9月25日の讀賣新聞は、磯田道史という若い歴史学者の「胎盤の神秘 父の威厳」という見出しの文を載せていました。 「胎盤のことを古くは『胞衣(えな)』といった。日本人ほど臍(へそ)の緒と胎盤に執着する民族もない。 天皇の胎盤はとりわけ呪術(じゅじゅつ)的にあつかわれた。天皇の胎盤は秘かに埋められ『胞衣塚』が作られる。院生時代、古文書をたよりに明治天皇の胎盤を埋めた場所をさがしてみたことがある。京都大学の隣りの吉田神社だ。神職をつかまえ『なぜ明治天皇の胎盤はここに』ときいたら『ここは御所の真東。明治さんは帝王の方角に胞衣を納めてもらわはったから無事にお育ちになって立派な天皇にならはった』と答えた。……吉田神社には宇宙の中心とされる八角堂・大元宮(だいげんぐう)があって、その東南東八間(約14・5メートル)の地点に集中的に埋められてきた。埋納すると、松を一本植え、まわりに石をそえる。これが天皇の胞衣塚と呼ばれるものである。この天皇の胎盤の埋められようは一国の安危にかかわる重大事であった。……」 この文中の大元宮そして明治天皇の胞衣塚は、当時全国の神社を取り仕切っていた吉田神社本殿の東南に位置し、さらに東南百メートルほどの高台に宗忠神社はお鎮まりになっています。 明治天皇のご降誕は嘉永5年(1852)、宗忠神社ご鎮座はその10年後の文久2年(1862)ですから、恐れ多くも明治天皇の御父孝明天皇の宸襟(しんきん)(天皇陛下の御心の内)が伺い知れます。 明後年、平成24年にご鎮座150年を迎える神楽岡・宗忠神社由来の“凄(すご)さ”に、改めて恐れ入っていることです。