60年前の「教祖神百年大祭」

平成22年4月号掲載

 60年前の昭和25年の4月半ば、霊地大元は教祖神百年大祭で大賑(にぎ)わいの日が続いていました。教祖様ご神去(かんざ)りになって百年の大祭でした。子供ながら中学校に入学したての私には、参拝の方々で埋め尽くされたような大元が心に強く残っています。大教殿はもとより境内に敷かれた莚(むしろ)の上も満員で、各所で説教講演がなされていたのでしょうか、熱弁を振るう紋服の先生方の姿が目に焼き付いています。
 それは完膚なきまでに打ちのめされて敗れた大戦後、当時のお道づれにとっては初めて訪れたと言っても過言でない熱い信仰心の花開く時だったのでありましょう。戦前戦中、そして戦後の5年間、ようやく生きのびたとはいえ食べる物にも事欠いた時を重ねてきていたにもかかわらず、いやそれだけに強く燃え上がったのが「教祖神百年大祭」であったと思われます。
 この日のために本部当局を中心に、当時の御道教師方は様々(さまざま)な面で準備をしていました。その頃の様子を伝える本誌「日新」を開きますと、ひたひたと胸迫り来るものがあります。
 まず、青年教師を中心とした“幻灯布教”が、全国展開されていたのが目に留まります。それは宗忠様のご人格、教祖神のご神格を、御逸話(ごいつわ)を中心としたフィルムに仕上げていわゆるスライドでお見せして、お道づれはもとよりその周囲の方々に、教祖様を身近にいただいてもらおうという青年の意気に満ちたものだったことが分かります。
 “教祖様、教祖宗忠の神様にお喜びいただきたい”、“その御心、御教えを今こそ!!”と、第一線の教会所の教師方が「祈り、説き、取り次ぐ」ことに精励している様子が伺えます。
 ある所長は「まず自分が実行しなくてはなりません。自分が率先して実行せずして講釈ばかりでは人は動かぬ。私は教祖様の御教えを一生懸命に実践させていただきました」と語っています。私はかつて、この方の令息でやはり御道教師だった人に尋ねたことがあります。「ご尊父は御道の先生として何を主眼につとめられていましたか」と。「父は毎日の御日拝を欠かさずつとめ、ひたすらお祓いを上げ、悩む人、病む人に生きてお働き下さる教祖様の御徳、ご神徳を取り次ぐお取り次ぎに精出していました。個人的にはいつも“にこにこ”の人で、不平不足を決して言わぬように心掛けていた人でした」と教えてくれました。
 このような第一線の教師の真ごころに触れて、多くのお道づれが自らは食し住むこともままならない時にもかかわらず、教祖神百年大祭完遂のために立ち上がられたのでした。それは「道連会館(現参集所)」の建築、檜(ひのき)の大鳥居の新設等、次々と霊地大元の整備となって現れました。
 一方、いわゆるソフト面では、「黒住教の展望」という記念出版物がなされ、教団内外の方々が一文を寄せられています。哲学者で京都大学教授の西谷啓治先生をはじめ宗教学者の加藤玄智氏、作家の中河与一氏、郷土史家の岡長平氏ら錚々(そうそう)たる方々が厳しくも温かい意見を開陳して、本教に対する期待を述べられています。
 新築なった「道連会館」の大襖(ふすま)には、お道づれの南画家矢野橋村知道人画伯(当時の日本南画院院長)の筆になる山水画三面、また矢野先生のお導きで神文捧呈(しんもんほうてい)して入信された日本画家金島桂華画伯の「古梅図」、さらに“信者の私も…”と自ら申し出られた水越松南画伯の「虎穴図」と、今に名高い画家方の大作が献納されました。いずれも、大元に現存する“客殿”の大広間に寝かされた四枚の大襖に、橋を架けるように板を渡した上に座って描かれていた姿が思い出されます。
 中でも水越松南画伯は、フランスの詩人ジャン・コクトーや作家アンドレ・マルローが、戦前に来日した時にその作品を絶賛して彼(か)の国に紹介したほどの人で、この「虎穴図」は神道山時代になっても何度か京都国立近代美術館などでの展覧会に“出張”したことのある名作です。
 この先生方のお呼び掛けで、その頃の日本画壇の中心的な画家方が次々と作品を提供して下さって、今日のチャリティーセールのような展覧会が岡山天満屋デパートで開かれ、同時開催の「黒住教祖遺墨展」とともに盛況を極めたことも当時の本誌は伝えています。また、この絵画展による浄財も力となって、二年後の昭和27年に「御神幸(ごしんこう)」の復活はなったのでした。いまだ瓦礫(がれき)がここかしこに残る岡山市中に、一陣の清風を巻き起こすような御祭りとして御神幸は多くの市民に迎え入れられました。
 さらに、金島画伯のお取り持ちで、茶道表千家千宗左家元が呼び掛けて下さって、裏千家、速水(はやみ)、藪内(やぶのうち)、武者小路千家の各家元のご理解とご協力を得て「黒住教献茶祭」は始まりました。献茶祭は、御神幸とともに一般の方々に信仰心にも似た清々(すがすが)しい感動をもって受け止められて、今日に至っています。
 地元岡山の山陽新聞社は、田中純作、矢野橋村挿絵になる小説「黒住宗忠」を約半年間に亘(わた)って連載し、その間、田中純氏を中心とした講演会を当時の岡山市公会堂で開催するなど、岡山の生んだ「宗教家黒住宗忠」を広く世に知らせるべく協力、つとめて下さっています。
 今改めて振り返ってみますとき、先輩方は教祖神百年大祭を、百年という時空を超えて、現在只今(ただいま)の生きてお働き下さる教祖神にお喜びいただきその高恩にお報いしたいとの一心で、多岐に亘ってつとめられていることが分かります。この精神こそ、立教200年を4年後に迎える私たちの心根でなければならないと強く思い知らされることです。