下腹の大切

平成22年3月号掲載

 昭和28年(1953)に開局した岡山市に本社を置くRSK山陽放送ラジオ(TBS系)は、開局以来、元旦放送の皮切りとして五代宗和教主様による「新春を寿ことほ)ぐ」とのご挨拶(あいさつ)を放送するのが習わしとなっていました。その後、昭和49年(1974)からは現教主様がその番組を受け継がれ、今年も元日の早朝に放送されました。
 今号の「道ごころ」には、今年の教主様のご挨拶を掲載します。 (編集部)

 私どもの黒住教本部は、教祖宗忠が誕生し、さらに立教なってから160年の間、拠点としていた大元、ここ大元には現在も「大元神社」と俗称もされる宗忠神社がありますが、ここから壮大なお日の出を求めて吉備津神社、吉備津彦神社の鎮まります吉備の中山の東南の一角、その名も昔から「神道山」と呼ばれる丘陵地に遷(うつ)り上がって、きょうこれから迎える初日の出が36回目となります。と申しますことは、立教196年の新年を迎えたわけです。
 私どもは、ここ神道山で毎朝お日の出を迎え拝(おろが)む、日拝を一日の始まりの祈りとして積み重ねていますが、これはひとえに教祖宗忠が若い頃に重い結核の病を、お日の出を拝んで心気一転して本復なり、さらにその年の冬至の日、お日の出を拝んで大感激の中に深く悟りを得て立教なったからであります。
 太陽を拝む信仰、いわゆる太陽信仰は、人間の古代文明発祥の地に共通して見られるもので、“いのちの根元”としての太陽、地球上のありとあらゆるものが太陽なくしてはありえない事実からしても、太陽崇拝は素朴ながら強いものでありました。わが国日本でも、ほんの数十年前まは、国内のここかしこで毎朝、お天道(てんとう)様と称して崇(あが)めて、朝日に柏手(かしわで)を打って一日を始めることが当たり前となっていました。そこには名の通りの日の本、日本国そのものがありました。ただ、他の国の太陽信仰とわが国のそれとは似ているようで大きな違いがありました。日本列島が地球上に占める抜群の場所のしからしむるところでしょうが、わが国の太陽信仰には太陽そのものに恐れを抱くといったものはなく、まるで子供が親を慕い崇めるような心根(こころね)がありました。太陽に捧(ささ)げる御供え物にしましても、他の国地域の多くが恐怖から逃れるためのいけにえであったのに対し、わが国の場合は人々の感謝の表れでありました。
 そのような背景の上に、教祖宗忠のいわゆる太陽信仰もあったわけですが、自らの大病を経て悟りに至ったその太陽信仰は、お日の出に顕現と申しますか象徴される大自然、大天地の“いのち”を天照大御神と称(たた)えて崇める信仰であり、同時に、その「分霊(わけみたま)」、「分心(ぶんしん)」とも「心の神」とも申していますが、わが身の奥に鎮まる神秘の働きへの確信でありました。
 宗教という宗教には、人間は心と肉体とにとどまらず、心の中の心ともいうべき霊(みたま)とか、魂と称される働きを認め信じようとするところに、ひとつの大きな共通項があると思います。教祖宗忠の明らかにしたわけみたま、すなわち天地の親神たる天照大御神の分心は、人の下腹に鎮まっており、従って、いかに下腹を養うかが教祖自身の常日頃のいわゆる行(ぎょう)でありました。
 これまた宗教という宗教はいずれも祈りの詞(ことば)を持っていますが、私どもは、わが国の千年になんなんとする昔から先人方が神に祈るときに唱えてきた大祓詞(おおはらえのことば)を唱えています。これは、この日本に自然発生的に生まれた信仰である、神道の中心をなす祈りの詞で、日本語の原点ともいえる歯切れのよい母音語の連なる美しい大和(やまと)言葉からなる、いわば生命の賛歌であります。この大祓詞を、下腹からの声で唱えるところに、自然に下腹に鎮まる分心が養われることとなります。
 とりわけ、お日の出に向かってこの祈りの詞を唱えるとき、いわゆる心は清々(すがすが)しく穏やかで、しかも新しい生気が湧(わ)き出(い)ずるのを実感します。まさに分心が養われているときです。
 さらに、時間的にもこの日拝の中心をなすのが、私どもの御陽気修行という行のひとときです。これはいわゆる丹田呼吸、腹式呼吸をつとめながら、太陽の御光をまるで水を飲むように呑(の)み込んで下腹に納める行です。これはまたまことに爽快(そうかい)な思いとともに、ひと口ひと口いただく御陽気が実にうまく、おいしくて何よりのご馳走(ちそう)をいただく思いです。このときは、まさに分心、わけみたまへの栄養をいただいているときであり、心の神への何よりの御供えをしている思いに浸ります。
 教祖の宗忠は在世中、昔のことですから羽織袴(はかま)の生活ですが、いつも右手を帯から下腹に当てていて、下腹に鎮まるわけみたま、分心を養うことに留意していたことが伝えられています。
 また宗忠の弟子の一人は、

 起きがけと寝がけと腹を二百ずつさすり下してみたま鎮めよ

と詠(よ)んでいますが、これは自らの重い病を乗り越えた体験が生んだものです。この人は、毎朝お日の出に向かって大祓詞を唱えるとともに、御光を呑み込んで下腹に納める御陽気修行につとめるとともに、朝に夕に、下腹、すなわちおへその下5センチくらいの所を中心に右手、左手と手は換えながらも祈りを込めてさすり続けて、本復したのでした。
 どこにお住まいになっていても、朝はやってきますし、ご起床が何時であれ、朝の光をいただくことはできます。出勤前の忙しい朝の方もいらっしゃいましょうし、お日の出前にお宅をお出掛けになる方もありましょう。しかし、ひとつ、一カ月なら一カ月と心に決めて、心を込めて朝の光を呑み込んで下腹に納め、せめてお休みの前に下腹に、これまた心を込めて二百回さすりつとめることをなさってみてはいかがでしょう。きっとお心様の爽快さこの上ないことと確信します。