元の大事

道ごころ 平成22年1月号掲載

謹賀新年

 平成26年の立教200年まで、5年を切った新年元旦を迎えて、改めて「元(本)」の大事に思いを致したく存じます。
 教書御文42号に、「古歌に」と記されて引用されている道歌があります。
 なかなかに人ざと遠くなりにけりあまりみ山の奥をたずねてこの歌は、様々(さまざま)な分野における人としての元の大事を教えているものですが、今の世に生きるすべての人々に味わいかみ締めていただきたい歌だと思います。
 神道山に大教殿がご遷座なって、36回目の初日の出を迎え拝(おろが)む正月元旦の日拝式では、まさに心新たに御教えの

 毎朝、毎朝生まれかわった心地で日拝をせよ、と、

 日の本に生まれながらに日を知らず枝葉にともすひをかりて見る(御歌129号)

の御神詠が強く迫ってまいりました。
 それは、人として、道びととして、さらに日本人としての最も基本的なことを忘れてはいないかとの自省であり、枝葉(しよう)末節にとらわれて肝心の大元から離れていないかという教祖神からのご忠告のようにも思えました。
 昔からどの道であれ、その道の元である基本を守り、その繰り返し、その積み重ねの大切なことが訴えられてきました。
 茶道の千利休は「守破離」といい、基本の厳守。、そしてその上で殻を破。って個性を発揮し、さらにすべてを離。れて自由自在の世界が開けてくることを説きました。俳句の芭蕉は、不易流行といい、変わらぬものの大事、変えてはならぬもののあること、そしてその上に立って、変えていくべきもの、変わりいくもののあることを訴えました。それは教祖神が

 根をしめて風に従う柳かな

 と、教えられるところであります。

 御文118号にあります。
 「人と申すもの、とかく少しのことに心かかり、そのところよりいつのまにか元の道を忘れ候(そうろう)こと、はなはだ恐ろしきことにござ候。申し上ぐるまでもござなく候(そうら)えども、万事その元をお忘れなさるまじく候。元有りて枝葉にてござ候」と。

 教祖神ご在世中の御逸話(ごいつわ)です。
 備中撫川(びっちゅうなつかわ)(現在の岡山市北区庭瀬 神道山の南3キロの町)に漢方医で漢籍(漢文で書かれた書物)に優れた宮田正翁という方がありました。
 教祖神のお説教を初めて拝聴して感に入った宮田氏は、教祖神が説かれるところは儒学(論語を中心とした孔子の教え)と同じで、まことに尊いと申し上げました。そのとき、教祖神は「論語に“君子は本を務む、本立ちて道生(な)る”とありますが、この本とはなんでございましょうか」とお尋ねになりました。
 宮田氏は「仁義礼智信や忠孝が本ということでしょう」と申し上げました。
 教祖神は、まさにその通りとうなずきながらも、「何よりの本、大元は天照します日の大御神です。大御神様なかりせば万物はありえないのですから」と、大御神様に対する“感謝の誠”なくして本は立たないことをお説きになったのでした。それは、宮田氏入信の時ともなりました。
 私たちは生きている、いや生かされて生きていてこその人生です。このお互いの人生、いろいろ問題も多いし、心悩ますことも絶えない現実の世の中です。しかし、それもこれも、生きておればこその悩みであり苦しみです。「不足が起きたら裸で生まれた昔を思えよ」との御教え、さらに、その裸で生まれた自身も親あればこそのお互いです。この親こそ最も身近な元です。
 母親なくしては日もたたぬ幼子(おさなご)が、成長するにつれて乳離れ親離れをしていき、しかも、親に反抗的な言動をとるいわゆる思春期を経て成人していきます。昔から世間の辛酸を嘗(な)めると申しますが、まさに人生修行を重ねるうちに、子供のときとはまた違った親を想(おも)う心が再び強く湧(わ)いて来るものです。世にいう「子を持って知る親の恩」です。しかし、今日の世の様(さま)は、そこのところがゆがんだものになっていることの何と多いことでしょうか。
 幼子が次第次第に知恵づきて天照る神より遠ざかりゆく、そのままの親子関係、さらに天照大御神様とまでいわずとも、いのちの大元を忘れて、自分が勝手に生まれて勝手に大きくなり自分の力で生きているという あえて錯覚といえるような思いに止(とど)まっている人の、これまた何と多いことでしょう。
 それは、自分自身の健康に不安を持つ人の多い今日の世の中であることからも伺えます。生かされて生きている真実を忘れ、自分の力で生きていると思っている、すなわちいのちの大元が揺らいでいるのですから、不安に陥るのもこれまた当然のことといえましょう。
 さらに私たち日本人は、いのちの大元たる天照大御神様の御神霊がそのままに「天皇霊」とお鎮まりになる、天皇陛下を戴(いただく)く日本人であるという大元を忘れてはなりません。
 即位された新天皇は、ほどなくそのために設(しつら)えられた「大嘗宮(だいじょうきゅう)」に四日四晩、まさに参籠(さんろう)になってつとめられる「大嘗祭」によって、伊勢神宮に鎮まります天照大御神の御神霊を神迎えされ、名実ともに天皇と立たれます。この時を始まりとして、「祈り」を中心とした日々を重ねられている陛下であります。この、伊勢神宮と一体的にまします天皇陛下のご存在こそ、日本人の大元であり、日本文化の源です。しかも、連綿と受け継がれてきて125代です。世界に例を見ないこの尊いご存在を、日本国民存在の元の本として有り難くいただけるお互いでありたいものです。
 先日もある方からお伺いしたのですが、外国からやって来る駐日大使が、その任を終えて離日のご挨拶(あいさつ)に天皇陛下にお目にかかるとき、その殆(ほどんど)どが涙するということです。またまた頭(こうべ)を深く垂れる思いに浸ったことでした。