日本人の大元
平成21年12月号掲載
岡山市に本社を置くRSK山陽放送ラジオは、月曜日から金曜日まで毎朝、「おかやま朝まるステーション1494」(6時55分から10時まで)を放送、幅広い情報を提供して好評を博しています。特に10月からは地域のリーダーをゲストコメンテーターとして迎え、エリアの動向・ニュースから人生訓に至るまで、あらゆるジャンルの話題をゲストに尋ねていますが、過ぐる10月26日から28日までの3日間(午前7時から8時まで)、教主様が生出演されました。
今号の「道ごころ」には、教主様が28日の放送でお話しになった要旨の一部を掲載させていただきます。(編集部)
石田アナウンサー :おはようございます。石田好伸です。きょうのお日の出は6時21分。いいお日の出でございました。きょうまでこの3日間、ゲストコメンテーターとしてお越しいただきましたが、黒住教第六代教主黒住宗晴さんが今朝のお客様です。
教主: おはようございます。きょうはちょっと朝靄(あさもや)といいますか霧がかかっていましたが、多分神道山からはとても穏やかなお日の出をお迎えできたと思います。私たちにとって毎朝のお日の出がいわば特別なのですが、特に冬至のお日の出は教祖宗忠立教の祈りのときですので格別なときとなっています。私たちに限らず北半球に住まう民族にとっては、冬至はいろいろな宗教の原点になっています。冬至の日を陰極まって陽に転ずといいますが、“一陽来復(福)”ともいいます。
日の出を待ちながら大祓詞(おおはらえのことば)と申しますが、この祈りの詞(ことば)を唱和します。この詞には千年になんなんとする歴史があります。わが国の先人先祖たちから伝わる神に祈る祈りの詞でして、母音語(ぼいんご)といいますか、非常に歯切れのよい日本語でできていて、それを下腹からの声で唱えることによって身も心も祓われる、そして澄み切った神の世界に通じる、そういう思いに浸らせてくれます。まさに言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国、この日本の代表的な日本語です。特に毎年一月に大勢の皆さんと、伊勢神宮に朝早くにお参りしてこの祈りの詞を唱えていますが、なにか日本人としての大元へ帰るような思いに浸ります。
実は、この伊勢神宮とは何かということを、皆さんに知っていただきたいと思います。お伊勢様は平成25年に第62回の式年遷宮を迎えられます。20年ごとに、御社(おやしろ)から御神宝まですべてを造り替えることを通じて、天照大御神様のご神威を新たにいただいていくという日本古来の最大の御祭りです。私は、伊勢神宮とは一体何かということを、ちょうど50年前の昭和34年の11月に、ひょんなことで知り合った甘露寺受長(かんろじおさなが)という方に教えられました。この方は当時、明治神宮の宮司で、その前、昭和34年4月10日には今上(きんじょう)陛下と皇后陛下のご成婚の儀の斎主をつとめた、皇居の中の御社(宮中三殿)の宮司である掌典長(しょうてんちょう)をおつとめでした。甘露寺師は、昭和天皇様に戦前戦中戦後しばらく侍従(じじゅう)として仕えられていました。お話の中で特に印象に残ったことがあります。それは昭和20年9月27日の、昭和天皇様と連合軍最高司令長官のマッカーサー元帥とのご会見です。昭和天皇は、マッカーサーに「このたびの戦争の責任はすべて自分にある。絞首刑に」とまで明言されたのです。マッカーサーとすると命乞(いのちご)いに来たと思っていたのが、その正反対だったのです。
なぜ天皇陛下はそういうことがおできになるのかと尋ねた時に、即位された天皇は“一聖一代(いっせいいちだい)”の「大嘗祭(だいじょうさい)」をつとめられるからだと教えられました。大嘗宮というそのために宮中に設(しつら)えられた御社に天皇がお籠(こ)もりになって、伊勢神宮に鎮まる天照大御神の御神霊を御自らの御心に神迎えする神秘の御祭りです。そこに鎮まる“天皇霊”、それを国民は“大御心”と崇(あが)め奉ってきたのです。この大御心というのは雲の上のような話ですが、実は親心につながるものなのです。一人の娘が狼に追いかけられたら一生懸命逃げるでしょうが、ひとたび母親となったら、わが子を救うためなら命をも投げ捨てます。その人格は全く変わらないのですが、子供を生み育てるところに生まれる親心がさせるものです。この親心を大きくしたのが、天皇陛下の大御心だということを聞きました。伊勢神宮と天皇陛下は表裏一体と申しますか、一体的な姿でいろいろな祭り事がすべて符合しています。「この日本という国には、清く流れる地下水の如(ごと)き働きがとうとうと流れきている。これが日本の大きなアイデンティティーそのものだ」という思いを抱き続けているものです。
それをもっと多くの皆さんに知ってもらいたいと、伊勢神宮にお参りするたびに思います。この親が子を思う心、それが愛情のいわゆる原点でしょうし、広く及ぼしていくところに、福祉活動の元があると思います。
私に次いでこの時間に出演される旭川荘(総合社会福祉法人)名誉理事長の江草安彦先生に、昔ご指導をいただきまして、一人で四重、五重の障がいを持ったいわゆる重症心身障害児のための施設を造ろうという運動を若い仲間と共につとめたことがありました。マスコミの方々も応援して下さって、おかげで今日の旭川児童院につながるわけです。この運動で街頭募金など一生懸命汗を流す人たちには、いつの間にか障がいを持った子供たちがわが子、わが兄弟になっていました。全くの他人なのに、自分のことになっていたのです。
だから、多くの方の共感も得られたのだと思います。当時はまだ映画が一番の娯楽の時代で、「マイ・フェア・レディ」とかああいう映画の前に、この人たちの生活ぶりを撮影した映画を上映してもらいました。中・四国の映画館で上映したり、16ミリのフィルムを持ってあちこち駆け回りました。実は三人のお母さん方が、勇気をもってわが子を映画に撮らせて下さったのです。そして児童院が出来上がった時、昭和42年の春、当時の旭川荘理事長の川崎祐宣先生が「よくぞ、お子さん方を世に出して下さった」としみじみ御礼を言われました。その時、三人のお母さん方は口を揃(そろ)えたかのように「施設ができたことも嬉(うれ)しいけれど、わが子が人様のお役に立てたことが嬉しい」と涙ながらに仰(おっ)しゃいました。当時まだ20代の私はその言葉に、親心は実に深いものだと心からの感動を覚えました。「わが子が人様のお役に立つ、そういう人間であってほしい」と願う母心の尊さ、いわば理屈抜きに親というものは、そうした心を本質的に持っているということを教えられました。あれは感動でした。おかげで、障がいを持った人たちに対する理解が世の人々に深まり、その上、施設までできたのです。また、お互いの自らの内なる親心を引っ張り出してもらったのです。有り難いことでした。