「軽部村」への寄稿二題
平成21年10月号掲載
明治元年創業で岡山県赤磐市西軽部(旧軽部村)にある利守酒造(社長・利守忠義氏)は、酒を醸(かも)し続けて141年。その濃(こく)のある”本物の地酒”は、数多くの日本酒愛好家に親しまれてきています。今号の「道ごころ」には、同社の”月々便り”「軽部村」に教主様が寄稿された二題を転載させていただきます。(編集部)
お酒の尊さ
「御神酒(おみき)上がらぬ神はなし」と昔からいわれますように、わが国固有の信仰である神道において、お酒は古来極めて大切にされてきました。神前の最上段に供えられるのは御神酒とお米であり、日常はその下には塩と水だけです。塩と水は動物としての人間に欠かせない貴重なものという意味ですが、お酒とお米が最上位に供えられるところに、わが国の歴史と日本人の心を見ることができます。
最近の考古学の進展は著しく、特に暗黒の時代と思われていた縄文時代は高度の文化を持っていたこと、今日のわが国の基底をなすものとして今に生きていることなどが、逐一明らかにされています。中でも縄文土器の美しさを絶賛する人は多く、激しいばかりの力があるのが縄文土器です。しかし、縄文土器の持つ何ともいえない暗さは否定できないのではないでしょうか。これは、ある意味では無理からぬことで、いわゆる狩猟採集が生活の主体で、その自然と一体になった日常は今の時代からみると美しく見えますが、生活自体はそれだけ厳しいものがあったと思われます。飢えからの恐怖、獲物を中に人間同士の命をかけた争いなど、常に死と背中合わせの日々だったと推察されます。そういう長い歳月の後に稲作文化が入ってきたとき、それはまさに燎原(りょうげん)の火のごとく広がってゆき、人口も一気に十倍になったといわれます。
お米の持つカロリーの高さ、保存力、それは飢えからの恐怖をよほど和らげたのではないでしょうか。いわゆる弥生土器といわれる当時の土器のたっぷりとしたおおらかな明るさ、それは当時の人々の心の表れのように思われます。同じたくましさでも、縄文土器の他を圧倒するようなものに比して、まるで赤ん坊を抱いてどっかと座った母親のようなたくましさです。
天地のいのちがこめられているから“こめ”といい、いのちの根だから“いね”という先人の言を否定できません。
みんなで協力してこその米づくりは、初めて平和な時をこの国にもたらしました。今日に至る春秋の神社のまつりはその象徴でありましょう。もっとも、土地を大きく持った者に米も多しと、争い、土地を奪い合う時代がやってきて、やがてこの国は統一されてひとつになるわけですが…。
米づくりとともに始まったのが酒づくりです。古代の人々にとって、お酒は、己(おの)れ自身を己れから解き放ち、神と人とを結び妙(たえ)なる世界に誘(いざ)なってくれる神秘の授かりもの、まさに“おみき”でした。そして同時に今日の薬の役も担っていたと思われます。
“おみき”に因(ちな)む次の短歌をご存じでしょうか。
有り難きまた面白き嬉しきとみきをそのう(供・備)ぞ誠なりける
まさに“酒は楽しく飲むべかりける”であり、日頃の生活もつとめて“みき”の心でということです。
バルト三国への旅
昨年の夏、縁あって訪ねたフィンランドの知り合いに案内してもらって、初めてバルト三国を巡りました。
かつてのソ連から独立して再建につとめるこれらの国々は、歴史ある落ち着いた国柄の中にも、新たな国づくりの意欲が随所に見てとれ、充実した1週間になりました。
ヘルシンキからその名もバルト海のフィンランド湾を横断して、まずエストニアの首都タリンに着きました。中世の要塞(ようさい)がそのまま街のシンボルとなっているこの街を歩き廻(まわ)って、3日後バスで南下してラトヴィアのリガに到着しました。ここでは、かつて東欧のパリと称(たた)えられた華麗な街を楽しみ、またバスにゆられて3つ目の国リトアニアに入りました。
ご存じの方も多いと思いますが、この国リトアニアと日本とは格別の関係があって、それは今に生きていることに胸打たれました。第2次大戦が始まろうとする1940年、この国駐在の領事代理杉原千畝(ちうね)氏は、「必死の覚悟と信念を以(もっ)て、亡命ユダヤ人約6千名に対して1カ月にわたって査証(ビザ)を発給し続け、彼らの生命を救った」のでした。(かぎかっこ内はこの街に立つ氏を顕彰する碑文の一部です。)当時、日本がナチスドイツと同盟関係にあった中でのユダヤ人を救うためのこの行為は、国の方針に背くわけで、今日の時代に生きる私たちには到底理解できない勇敢な行動だったのです。それは、自身の外交官としての地位はもとより命にかかわる危険極まりないことでした。
なお、その夫人幸子女史は、昨年10月11日94歳の長寿を全うして亡くなられましたが、その著「6千人の命のビザ」は多くの人に感動を与えました。
ヨーロッパの国々に勝るとも劣らぬ歴史を有するわが国ですが、これらの国々の人たちと比べて、今の私たちは何が欠けているのかとの思いが、旅の間中、私の中についてまわっていました。駄ジャレのようで恐縮ですが、エストニアのタリン、ラトヴィアのリガを経てリトアニアでの杉原千畝氏に至ったとき、「足(た)りん」のは「離我(りが)」の精神ではないかと思いました。自らの地位はもとより命まで、私心を捨て、我(われ)を離れて尽くす心を杉原氏に見て、心動かされたからかもしれません。
先の大戦の終戦からすでに64年にもなる今日ですが、戦争の悲惨さは別として、戦前は「滅私奉公(めっしほうこう)」というスローガンのもと、己れの損得を離れ、まさに私を捨てたお国のための日本人でした。終戦という無残な敗戦を機に、日本人は「公のためはもう止(や)めた。これからは自分中心」と宣言したかのように、折から展開された民主主義、まさに国民を主とした、人権尊重、自由、平等を尊ぶ旗印の下で、自らの責任を伴わない自己中心的な生活が当たり前の国となりました。これらバルト三国の悠揚(ゆうよう)迫らざる落ち着いた街のたたずまい、行き交う人々、出会う人と比べて、もし“幸せ度”という物差しがあるならば、わが国民とどちらがその度数が高いだろうかとも思いました。ボランティア活動は盛んな今の日本ですが、個々人の生活の中で、“我を離れて”他をおもんぱかり、相手の立場に立っての言動がもう少し増えるならば、“幸せ度”はぐんと高まるのではないかと、自戒もしながら思い知った旅でした。