文化の土壌

平成21年6月号掲載

 岡山県赤磐市西軽部(旧軽部村)にある利守酒造(社長・利守忠義氏)は明治元年(1868)創業の蔵で、“本物の地酒”を生み出し続けています。社長の令息で専務の利守弘充氏は黒住忠親公室長のご友人ですが、教主様には同社の“月々便り”「軽部村」に寄稿されました。
 また、教主様とごじっ懇の間柄で大原美術館理事長の大原謙一郎氏が会長をお務めの岡山県文化連盟の要請を受けて、文化連盟だより「さんび」にご寄稿になりました。「文化の土壌」を学ばせていただきましょう。                       (編集部)


酒造り国づくり

 お酒を造ることをいう醸造の醸は“かもす”と読みますが、申し上げるまでもなく、蒸(む)した酒米に酵母を加えて一定の期間置くところにお酒は造られます。この道程を醸すというのしょう。酒造りにはお米の質も大切ですし、酵母も良質でなくてはなりません。また、酒(さか)樽(だる)も他の菌が入らないしっかりしたものでなくてはならないでしょう。そこでじっくり時間をかけてまさに熟成されたのが銘酒となるわけで、酒造りとはいいますが、お酒は生まれると言った方が正しいのかもしれません。杜氏(とうじ)と呼ばれる人をはじめ関わ人々は、良いお酒が生まれるための良い条件づくりが問われていて、酒そのものはつくることはできないのではないかと思います。それは、名医が、“医者は病気をなおすのではなくてなおるのを手伝うだけだ”と言われるのに似ています。
 お米にしても、その言葉の由来からして、天地のいのちがこめられているから米であり、人が生きる上でのいのちの根なればこそ稲といわれてきたもので、このことはかつてこの項でも記したことがあります。古来わが国では、人のいのちはもとより、すべてのいのちはまさに神からの授かりものとの思い、信仰にも似た強いものがありました。
 それは、日本といういのちある国の、その時代時代における輝きにも見ることができるように思います。この国の歴史を辿(たど)ってみますと、あたかも酒を醸すがごとき年月、国の有りようが伺えるのです。
 はるかなる太古の昔、狩猟採集が主たる生業だったこの秋津島根に、渡来人とともに米づくりが入ってきた。それは今日縄文人と称される質の高い“酒米”に、稲作というこれまた良き“酵母”が働いて、この海に囲まれて雑菌の入りにくい日本列島という“樽桶(たるおけ)”の中で美事に醸され、神話時代という“美酒”を生んだとはいえないでしょうか。
 また、仏教とともに流入した古代中国唐の文明文化という酵母は、稲作で洗練されていたわが先人という高品質の米をうまく醸して、奈良時代を経て平安時代というわが国最初のと言っても過言でない、芳醇(ほうじゅん)なうま酒を生み出しました。  室町時代末期にキリスト教宣教師のもたらしたヨーロッパの文明文化は、鎖国という密封した樽の中で、これまた江戸文化、中でもユニークな元禄、化政文化を次々と醸し出しました。
 さらには明治維新前後から飛び込んできた“西欧酵母”は、明治大正のこれまた独特の時代を醸し、相当辛味(からみ)が効いたものが続くこととなりました。
 とにかく、わが先祖先輩の秀でた資質という“米”に、自ら選択したような良き“酵母”を外から得て、島国という特有の“樽”の中でたっぷり時間を得て熟成されて生まれたのが、夫々(それぞれ)の時代という豊かな芳香を放つ“銘酒”ではないでしょうか。
 昭和20年の終戦を機に怒濤(どとう)のごとく流れ込んできた“アメリカ酵母”は、まだ結論を出すには時間が要るかもしれませんが、先人たちが取り入れた“酵母”と違って、エネルギーも速力も圧倒的で、しかもその勢いは募る一方です。情報化、国際化時代の今日は、四方が海という“樽の枠”も無いに等しく、新しい銘酒を醸し出す“杜氏”のご苦労は察して余りありす。せめて“米”に当たる私たち国民が自立して賢く生きねば、後世の人たちに“美酒”を提供できないのではないかと愚考するものです。

金重陶陽氏に学ぶ 文化の土壌

 昭和の20年代後半から30年にかけて高校生だった私は、金重陶陽氏と親しかった父に連れられて、しばしば備前の御宅に上がっていました。
 陶陽氏はいつも和服姿で端然として父を迎え、時には轆轤(ろくろ)を挽(ひ)いて作品をつくって父に刻字させて下さったり、またいかにも美味(おい)しそうに自作の盃(さかずき)で酒を酌み交わすなど、父にとっては至福のときがそこにありました。こうした折、話されたことで今も心に残るものがあります。
 「最近の備前焼は堕落してきた。それはビニールであり、土練機(どれんき)のできたこと」驚く私に「備前の土はいきもので、ビニールで包んでおけば乾燥せずに済むと思っているが、それでは土は死んでしまう」と言って、土ぐらに案内されました。そこでは、ぬれた莚(むしろ)が土に被(かぶ)せられ、これを定期的に取り出しては足で踏んで錬りまた寝かすという作業が重ねられていました。「土練機を使っての土づくりなどは、土を均一化してしまって備前の土の良さが失われる」と言われました。このような土を口に含んで味わってみて、そろそろ使い頃だと轆轤に載せるのですが、その轆轤も最近は電動式で、これでは備前の土を生かし切れないということでした。事実、その頃の氏は、手轆轤を中に対座した夫人にそれを廻(まわ)させて成形されるのが常で、このお二人の姿そのものが印象的で、今も鮮やかに思い出されます。
 長じて思うようになったことですが、陶陽氏は、備前の土の特質を引き出し生かすためと同時に、ご自身の心を作品に込めるのに最も適した手立て、過程を大切にされていたのだと思います。そこに、作品自体が見る人、使う人の心を打ち、また心豊かにしてくれる元があったのしょう。
 先年ご令息の晃介氏に伺ったのですが、備前で最初に電気轆轤を使ったのも土練機を購入したのも陶陽氏だったようで、「父はそれらを使った上で、何が大切かを再確認したようです」とのことでした。
 その陶陽氏にして、中世の工人たちのつくった摺(す)り鉢のような無心の中に生まれた、それだけに衒(てら)いのない備前焼には、憧(あこが)れにも似た思いを抱かれていたようです。「職人たちは、一つでも多くのものをつくることに一生懸命で、そこには雅味を出そうとか、面白くしようとかいう意識は全くなかったはずだ。ちょっと見ると無愛想で無造作のようだが、いったん手にしてみると、どこを見ても懇切ていねいで親切な心がにじみ出ている。それに誠に生き生きとしている」(金重陶陽著「土と火の物語」)と語られるのです。
 当時の工人たちは、ひねもす轆轤を廻して同じ形の摺り鉢をつくるわけですから、手も決まり土取るときのその量も計ったように同じであったことでしょう。それは、つくる楽しみや喜びにあふれ、さらには思わず“ありがたいなあ”とのひと言が口からもれるような時ではなかったかと思います。
 私心を捨て我を離れた分、逆につくられるものにいのちが吹き込まれ、従って力強くも美しいものが生まれたと思うのです。  実はこうした姿勢は、わが国では、時代を越えジャンルを越えて尊ばれ、様々(さまざま)な世界で大切にされてきた精神でした。このような職人気質に満ちた名もなき人たちこそ、この国の文化を生み育ててきた土壌であり、それは今も変わらないのではないでしょうか。
 金重陶陽という備前の大輪の華も、こういうよく肥えた土壌の上に花開いたのであり、併せて思い駆られますことは、今日に生きる私たちも、後世の人たちの良き土壌たらねばということです。