今の世に問われているもの(上) 《山陽放送ラジオより》
平成21年4月号掲載
山陽放送ラジオ(本社岡山市)は毎週火曜日(4月から月曜日)の午後10時10分から50分まで「アンクル岩根のおもしろラジオ講座」を放送しています。元山陽放送のアナウンサーで現山陽学園大学客員教授の岩根宏行氏が多彩なゲストと音楽で、アートに哲学的に語る番組ですが、今年の第1回(1月6日放送)に教主様が出演されました。
教主様を中心に、岩根氏と女性アナウンサーの中山美香女史によって行われた対談の要旨を今号と次号にわたり紹介させていただきます。 (編集部)
岩根:実はきょう、先ほどまで日拝を私たちも体験させていただきました。
中山:神々しいという形容詞をよく使いますが、本当に神々しいというのは、こういうことな
んだと実感しました。
岩根:それと、やはり太陽は日本を含めて地球をこんなに明るくするのかと思いました。
教主、日拝は毎日つとめていらっしゃるんですか?
教主:そうです。これが一番の仕事です。お日の出を迎えて拝(おが)む日拝をする。
あとは寝ています。(一同笑)
中山:でも、欠かさずですよね。雪が降ってもですか?
教主:もちろん。嵐がやって来ても。ただし屋外ではできませんから、その時は大教殿という
私どもの神殿でお日の出の時刻につとめています。
岩根:自然の中に教主がいることによって、ご自身の心の中が少し変わってくるとか変化する
とか、そういうこともありますか?
教主:お日の出の瞬間というのは、『きょうの自分の誕生』といえます。いや、『きょうの世
界の誕生』です。この時は地動説ではなく、完全に天動説となっていますね。
岩根:なるほど。
教主:事実、その瞬間に、今朝もそうでしたが、鳥の鳴き声も活発になります。私どものお日
の出を拝む祈りは、日本語の原点といえる大祓詞(おおはらえのことば)を唱えるとこ
ろに始まります。正式には『中臣(なかとみ)の祓い』と言いますが、日本人が千年を
超えて神に祈りを捧(ささ)げる時の、その祈りの言葉を下腹からの声で唱えます。お
祓いを上げると申しますが、ひたすらつとめてきています。ただそれさえも、日拝では
前座といえます。何が中心を成すかというと、『御陽気修行』と申しまして、この天地
に満ちた大陽気を、お日の出の御光りを全身にいただく行(ぎょう)です。物理的には
空気が下腹に入りますので、形の上では丹田(たんでん)呼吸、あるいは空気を呑(の)
む呑気(どんき)法です。しかしそれも付属であって、あくまで天地の大陽気を下腹に
納めて天地自然と一体になっていこうとする、そういう時間の積み重ねが御陽気修行で
す。呼吸の「呼」は、「呼ぶ」で「吐く」という意味です。「おーい」と声を出して呼
ぶでしょう。空気を吐ききってそれで御光りを呑み込むわけです。その後、大教殿の御
神前に下りて行く。この下りて行く時間がいいんですよ。いわゆる後味というか。
岩根:あ~、なるほど。
教主:木の葉の一枚とも話ができるような、いや石ころとも物が言えるような気がします。事
実、石ころ一つでもお日様なくしてはあり得ません。彼らは彼らの生命を持っているわ
けですから。それと何か心が通じるような、本当に穏やかなピースフルなときですね。
岩根:実は、30年も前に日本画の重鎮の東山魁夷(かいい)さんと話をした時に、魁夷さんが、
「島の中の石が私に語り掛けてくれます。私を描いて下さいと言っているんです」と、
何度も仰(おっ)しゃいました。
教主:芸術家にはそういう人が多いのではないでしょうか。私の親しかった前衛陶芸家の鈴木
治さんもそうでした。なぜ日本の陶芸家は凄(すご)いのかと、西洋人の陶芸家がやっ
て来たときに、鈴木さんのアトリエでハタと気が付いたというのです。「日本の陶芸家
は焼き物を作っているのではなく、生んでいるんだ。命を吹き込んでいる」と。そうい
う捉(とら)え方をされたといって、嬉(うれ)しそうに話していました。これは、ど
の道でもそうではないでしょうか。私の今、話していることも教科書に書いてあること
ではないので。(一同笑)大切なことは生きているか死んでいるかです。
岩根:そうですね。いや、本当にそうです。ところで、きょうは「祈り」をテーマにお話を伺
いたいと思います。昨年、いろんな事件がありました。
中山:年末に発表されたのが、「変化」の「変」という一字でしたが、いろんな事がクルクル
変わっていく一年でした。いろんな心の病気も、ずっと問題になっている状況ですね。
岩根:例えば、親子の関係もそうですね。スムーズとはいえないニュースが沢山(たくさん)
ありました。最近の、日本の状態について教主はどのように考えていらっしゃいますか?
教主:おこがましい言い方かも分かりませんが、宗教者という宗教者が人間の在りようを、日
本人の在りようを身をもって世に示すときが来ていると痛感しています。教育の問題と
か、政治の問題とか、いろいろありますが、つまるところは宗教者の大きな使命であり
課題だと思います。日本の宗教というのは何宗とか何教とかさまざまですが、他教団の
方とも「お互い日本教ですね」とよく話しています。それは何かと言えば、親と子、先
祖と子孫、この絆(きずな)を基軸にしたところに、この国は成り立ってきたというこ
とです。この親と子の、そして先祖と子孫の絆が非常に脆(もろ)くなっています。
昔、子供を産むということは、『授かる』という言葉を使いました。さらに、私は若い
時に出雲、島根県に行きまして耳にして感動したのですが、子供が授かるということを
「お宮さんに日が止まる」と。「子供の宮にお日様が止まるだから人」ということでし
た。人というのは日止(とど)まるが故(ゆえ)の人であり、日と倶(とも)にあるの
が人で、わが国の先祖先輩が生きてきた生き方だと思います。事実、物量的、資源的に
はゼロに等しいこの島国で、こんなに大勢の人が今日まで命を繋(つな)いでこられた
わけは、そういう先祖の生き方の中に答えがあります。よりよい生き方が、ここにいっ
ぱい詰まっているのに、それが顧みられないでいる今日です。まるで自分が勝手に生ま
れてきたような、現在皆が言うところの『子供を作る』という言葉に表れていますね。
合理主義は本来、もっと深いものだと思いますが、自己中心的な、非常に浅薄(せんぱ
く)な便宜主義に毒されてしまっているように思えてなりません。子供の教育のために
は家庭がまずしっかりしていただかなくてはなりません。それは結局、私たち宗教者の
大きな課題で、ああいう事件を聞くたびに、いわば自分に槍(やり)を刺すような思い
を強くしています。
中山:日を灯すではないですが、心に日をと灯(とも)せるように過ごしていきたいと思いま
す。
教主:そうです。しかしここでは日が止まるんです。妊娠するということは、お父さんとお母
さんの細胞が合体して終わりというものではありません。それが受け皿となってお日様
に現れるいのちの元が鎮まる。魂がとどまる。これが誕生です。私は祈りのない宗教は
ないと思いますし、宗教という宗教は唯物的な物の見方は取りません。また同時に、宗
教者は人間を心と体だけでなく、心の中の心、『奥の心』を何より大事にしています。
心理性的に言えば意識と無意識といえます。その無意識に当たるところをキリスト教で
は聖霊(せいれい)とい、仏教では阿頼耶識(あらやしき)と言い、世に言う魂。われ
われ、神道ではお日の出に現れる大御神様、いわばいのちの大元の分けみたま、分心
(ぶんしん)と申します。その分心が止(とど)まったとき、それがいのちの誕生の時
です。そういう生命観をいかに今の人に持ってもらえるようにつとめるか。これは大変
難しいことですが、われわれ宗教者に突きつけられた課題なのです。
中山:私も子供を産みましたが、今のように仰しゃっていただくと、「寿ぎ」という言葉があ
りますが、言葉で改めて祝福されているというか、新しい価値観で表現していただいて
いるような気が凄くいたします。
岩根:そうですね。
教主:言葉は大切ですよ。古来、日本は「言霊(ことだま)の幸(さき)はう国」といわれてい
ます。言葉に魂が宿るとして「言霊(げんれい)」と書いたり、「言魂(げんこん)」と
書いたりします。それが言葉そのものの語源だそうです。江戸時代に生まれた私どもの
教祖は言っています。
「刀は人の身を切るが、言葉は人の心を切るから、言葉には気をつけろ」と。
岩根:なるほど。それはとても大切なよい言葉ですね。
中山:年始から、お互い、いろいろと学びましたね岩根さん。
(つづく)