感謝の信仰―神道
平成21年1月号掲載
謹賀新年
焼き物好きの私は、趣味は何かと問われれば陶磁器鑑賞と答えるのが常です。と言いますのも、先代教主五代様が、まだ無名の頃の金重陶陽氏や藤原啓氏といった後に備前焼の人間国宝にもなる作家方と親しく、わが家の食器は私の子供の頃から備前焼によるものがほとんどといった生活のせいだと思います。この備前焼という焼き物は、1000年の歴史を数えるといわれていますが、無釉(むゆう)の焼き物(素焼き)という意味では、私は素人ながら、古く縄文や弥生の土器にその源があると思っています。その多くが素朴な形で、上薬(うわぐすり)を使わない分、それだけつくり手の心、その人となりがもろに出てくると言っても過言ではありません。それは時代も強く反映していて、武家社会といわれる鎌倉時代のものはやはり骨太のたくましい備前焼ですし、桃山時代のように時代が激しく動いた時代には、新しい世界が切り開かれたような従来にないものがつくられています。
建物をはじめ人間生活にかかわる極めて古い物は、なかなか今日に伝わりにくいものですが、焼き物は比較的消滅することなく今に残っている物といえましょう。しかもそれは祭具であったり、生活用具がほとんどですから、生活に密着しているだけに当時の人々の心が伝わってきて興味は尽きません。特に縄文土器と弥生土器との対比には妙味があります。今日では文化的にも高いレベルにあったといわれる縄文時代ですが、狩猟採集を生活の主な手立てとするこの時代に生きる人にとって、その日々は実に厳しいものがあったと思われます。
例えば、きょう猪(いのしし)を捕らえることができても明日の保証はなく、常に飢えとの戦いがあったのではないでしょうか。しかも、獲物を中にして人間同士が争わねばならないことも度々であったと想像されます。縄文土器に伺えるたくましさとともに陰惨なともいえる暗さは、この時代の人々の心がそのまま現れていると思うのです。勿論(もちろん)、この時代にも信仰はあり、この時代を代表するといわれる火焔(かえん)土器などは祭器でしょうし、この土器の姿形から見てもその祈りは実に強いものだったと思われます。しかしその多くは恐怖から逃れるための信仰であり、いわば“祟(たた)り”を恐れるがための“いけにえ”を供えての祈りであったといえましょう。
長きに亘(わた)った縄文時代の終わり頃に、米作りがもたらされました。それは当時としては猛スピードで日本列島の西から東へ伝播(でんぱ)していきました。いわゆる弥生時代の始まりです。この稲作は人々の生活、その意識を大きく転換させたようです。お米を中心とする生活は飢えからの恐怖を軽減させました。少人数では稲田も整いませんし、一定の場所に定住して多くの皆が協力しての生活になりました。人々に初めて安定した平和なときが訪れた、と言っても過言ではないでしょう。私は、毎朝お日の出を待ちながらの御日拝を一日の始まりとしていますが、お日の出を迎えてのしばらくは、御日拝のクライマックスです。このときを待っていたかのように小鳥の鳴き声も盛んになりますし、静かな中にも張りつめたものに満ちた、神々しい、しかも穏やかなときです。これは、この世の始まりのときとも思えますし、“高天原(たかまのはら)”は場所というよりこういう時間ではないかとさえ感じられます。はるかなる古代の人々にとって、米作りが始まってのしばらくの歳月はまさに“高天原”ではなかったかと思うのです。
一粒のお米が田んぼに蒔(ま)かれますと、大地に向けては白い根が、天に向かっては緑の葉が伸びていきます。営々たる農作業の末に刈り取りの秋を迎えます。1粒のお米が何百倍にもなる不思議、有り難さ。人々はこの不思議の元を尋ね、大地に、水に、風に、そして天、お日様に感謝の心を捧(ささ)げたと確信します。ここに感謝の祈り、感謝の信仰である神道が始まったのです。
それは縄文土器とは対極をなすともいえる弥生土器に伺われます。その典型的な物は、腰の張ったどっしりとしたしかも明るい色調の壺(つぼ)で、それはあたかも母親が赤ちゃんを抱いてどっかりと座ってお乳を飲ませている姿を連想させます。満ち切っていて、付け入るすきのない意味でたくましい限りですが、それは決して他を圧するようなものでなく、まことにおおらかで平和的です。もっとも、その期間は決して長くなく、程なく土地を多く持った方がお米の量も多いということも手伝って土地の奪い合い、争いの時代が始まります。そこにひとつの国としての日本国が生まれていく道程があるわけですが、それだけに、それまでの稲作の始まったわずかの平和な期間こそ、高天原、神話の生まれる世界だと思われるのです。
当時の人たちは、直接に土の上のいわゆる地べたでの生活でしたのに、いのちの根たるイネ、天地のいのちが込められているコメは、高床式の建物で保管されました。お米にとっての大敵は、湿気とネズミですから、高床の柱にはネズミ避(よ)けが工夫(くふう)されていました。
この米倉が、構造的にはそのまま今日に伝わっているのが伊勢神宮の御正宮(ごしょうぐう)であり、ここを生活の場にしたのがいわゆる農家なのです。
40年前の昭和44年、霊地大元から神道山への大教殿ご遷座が決定されたとき、私たちは、お伊勢様との教祖神以来の長いご神縁に加えて、有り難いお日の出を求めて上がる神道山にふさわしく、新しい大教殿は日本独自の形である農家を基本とした建物を設計家にお願いしたことでした。
それは、焼き物でいえば弥生土器のたくましくもおおらかな温かさを求めてのものであり、神道の教えの大元であるがゆえに大元といわれた霊地大元から、神道山と古来崇(あが)められてきたお山に遷座する本教の責任でもあったのです。
かつて耳にしたバーナード・リーチの言葉を尊く思い出します。この人はイギリスの陶芸家でわが国の陶芸にも精通した人でした。
「日本民族は、古来、太陽崇拝の精神によって発展してきた民族で、今後もおそらくそうであろう」のひとことです。