「おかげさま」と「もったいない」
平成20年9月号掲載
現在6、70歳代の人の親の世代までというと言い過ぎかもしれませんが、とにかくわが国の先人方は、「おかげさま」と「もったいない」が口癖のように言葉の端々に出る生活をしていたように思われます。
多くの宗教に共通する教えのひとつは、とかく自我意識が強すぎて従って自己中心的になりがちなわれわれ人間だけに、その自我意識は生きるエネルギー源でもありますが自らを損う因でもあることから、この「我」の問題を正面から取り上げているところだと思います。仏教で「我執を断つ」「無心無我」の大事を言い、キリスト教で「自己犠牲」を尊び、教祖神が「我を離れよ」と説かれるのも、こうした人間の持つ“もろ刃の剣”ともいえる「我」のコントロールの大切さを、宗祖教祖と崇(あが)められるような方は、いわば人間学の達人で百も承知されていたからでありましょう。
先代教主五代様が常に説かれた、「おれがおれがのがの字を捨てて、おかげおかげのかの字で暮らせ」の生き方こそ、時代を超えたものであるはずです。ところが、人権を重んじ、個人の自由を尊び、人間の平等を何よりも大切にする現代社会は、この尊い精神のマイナス面である自己中心的なわがままともいえる人間を、大量に生み出すことにもなってしまいました。世にモンスターペアレントといわれる学校での勝手気ままな親たち、モンスターペイシェントと恐れられる病院における傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な患者は、その最たるものでしょう。こういう時代なればこそ、今日の日本人に耳新しく飛び込んできた言葉に「もったいない」があります。これは、ご存じの方も多いと思いますが、アフリカのケニア共和国元副環境相で、ノーベル平和賞まで受賞しているワンガリ・マータイという女性が、来日して知った日本語の「もったいない」の一言に感動したところに始まります。飢えの苦しみで呻吟(しんぎん)する人の多いアフリカ、その反面あまりにも物を粗末にする先進国、そこに生まれる環境問題、マータイ女史は「もったいない」の心こそ世界を救うと訴えているのです。
ここに、ぜひとも蘇(よみがえ)らせたいのが「もったいない」の根本精神です。それは、すべてのものに神宿り、いのちがある、無機質なものも生きているという日本人古来の八百萬(やおよろず)神信仰です。
謡曲の「大社(おおやしろ)」にいう「いづくにか神の宿らぬ蔭(かげ)ならん。嶺(みね)もをの上も松杉も、山河海村野田残る方なく神のます」はそのところを見事に表現しています。家の建築に際しては、土地の神様にお許しを得てお守りをいただくべく地鎮祭を執り行う日本人です。書道に励む人は、使い古した筆を筆供養といって筆に感謝の祈りを捧(ささ)げておはやしをしますし、料理人方は、使った割り箸(ばし)を箸供養と称してこれまた感謝の祈りのときを持っています。
この日本人の八百萬神観は、インドに生まれた仏教が千年を経(へ)てわが国に伝えられますと、「悉有(しつう)仏性説(あらゆるものに仏性あり)」、「草木成仏説」の日本仏教を生みました。
“あらゆるものにいのちあり、神宿る”の確信の最たるものは、お米です。人々のいのちの根だからイネといわれ、天地自然の恵み、誠が込められているからコメと尊ばれてきたお米です。テレビの長寿番組の、“水戸黄門”に出てくる有名な場面があります。諸国行脚の黄門様が、とある農家の庭先で一服しようと積んであった米俵に腰を下ろしたとき、その家の老婆に叱(しか)りつけられるところです。「お米様の上に腰掛けるとは!」との一喝に、たじろぎながらも感動する黄門様のことは昔から有名です。
私の父五代様は滅多(めった)に声を荒げることのない方でしたが、食事のとき茶碗に“ご飯つぶ”を1粒でも残して“ご馳走様(ごちそうさま)でした”と手を合わすと、その度に“それではご馳走様でしたにはなっていない”と厳しく叱られました。1粒のお米に宿るいのち。そのいのちを育(はぐく)む天地のお働き、稲作農家の方のご苦労、そうした誠ごころを粗末にすることは、まさに「もったいない」ことであるというわけでした。また同時に、1粒のお米も、天地のお働きという大御神様の「おかげ」、農家の方々をはじめ多くの人々の「おかげ」で私たちがいただけるという心を忘れてはならないということでもありました。また、電気のつけっ放しから水道の流しっ放しまで、父は厳しかったことを思い出します。いわば事の始末をきちんとつける大事もしつけられていたのだと思います。
教祖神のご在世中、お住まいの今の霊地大元から東の方へお出掛けのとき、度々草履(ぞうり)を買い求められる店が現在の岡山市瀬戸町下にありました。そこの主人が明治の20年代まで存命で、本教の教師に語ってくれた御逸話(ごいつわ)があります。
「私は、黒住教祖さまを存じております。私どもの子供あがりの時分、時々、私の家の前をお通りになりました。そして、時々、店へおよりになって、草履をお買いになりました。その当時、不思議に思いましたことは、いつも草履をお買いになりますと、古い破れた草履を、キチンとそろえて、目八分に捧げるようなふうにされて、掃きだめ(ゴミ箱)の中へおいれになり、じっとその草履を拝まれます。古い破れた、きたない草履を、いったいどういうことなのだろうと、不思議に思ったものです。……」と。(日新社刊「教祖様の御逸話」より)
ここには、「もったいない」に「おかげさま」の心が裏打ちされた、真の「もったいない」のお心が伝わってまいります。
“メタボ”とかいって食事のことが改めて話題になる一方、わが国の食料自給率は40パーセントを切る現状にもかかわらず、食べ物の大量廃棄は食料全体の4分の1にもなる、といわれている今日のわが国日本の状況です。「もったいない」「おかげさま」の、生みの親である私たち日本人が問われているところは、実に重いのです。