大切な自然とのかかわり
平成20年8月号掲載
先日ある方との話の中で環境問題に話が及んだとき、彼が「昔は“国破れて山河在り”でしたが、今の日本は国栄えて山河滅ぶですな」と申しました。一瞬どきっとするようなひとことでしたが、ある意味では現代日本の問題を言い得ているなと共感しました。
農業人口の減少、農地が少なくなったことも一因でありましょう。田んぼによい水を得るためにも山を大切にしてきたのが、わが国古来の米づくりでしたし、林業も農業とともにわが国の産業の大きな柱でしたが、大きく様変わりしてしまいました。限界集落とかいう厳しい表現で、老人ばかりになった山間の村落の窮状(きゅうじょう)が訴えられていますが、一方、これではならじと心ある方々の動きも各地に見られるようです。そのひとつに、京都府の綾部市長四方八洲男氏主唱の“水源の里”運動があります。これは、限界集落といわれるような所はその多くが河川の源流域で、この地域を守らねば川下の人々の生活は危うくなるといって、こういう集落のある全国の自治体に呼びかけてネットワークをつくり、ともに解決策を見出(い)だす努力をしようと訴えられているものです。
水源といえば、今日、再び三たび世界の注目を集めているチベット仏教のダライ・ラマ14世法王は、チベットこそアジアの水源と訴えてこられました。もう13年も前になりますが、縁あって私どもが身許引受人となって神道山にお迎えした時の法王の話が、昨日のことのように思い出されます。
「私たちはチベットの独立を訴えているのではない。それは所詮(しょせん)無理なこと。私たちが主張しているのは、あの地でチベット語はもとよりチベット仏教による伝統的な生き方、チベット民族本来の生活の確保を求めているのだ。日本の富士山より高いあの地では、そうでないと人間の生存自体も難しいし、いわんや開発という名のもとに自然破壊をしたならば、中国の揚子江や黄河はもとよりメナム、メコン等、アジアの大河という大河は汚染されてしまう。チベットはアジアの源流域なのだ」と力説されたのでした。
神道山は、このような山々とは比ぶべくもない小さなしかもわずかな広さですが、平地でないことは確かですし、建物や広場、道路に占める土地よりも樹木が生い茂った所の方がはるかに広いということでも、山であることにかわりはありません。
こういう神道山に、ここ15年ほどお道づれの皆様が、木の生命線ともいえる深根の切られていない常緑樹のポット苗を植え続けて下さっています。かつての赤松の美林が松くい虫で枯れてしまっていましたが、今そこは照葉樹林に覆われた緑豊かな地になって生き返ってきています。この地を中心に、ほんの実験的なものにすぎませんが、“神道山水サイクル”という名のもとに、生活排水を浄化して山に戻す施設が植樹運動とともに稼働しています。浄化装置では除去できないリンやチッ素分が、逆に樹木の栄養分となって緑を一層大きく育てる力となっているようです。
今日、里山といわれる村落の背後の山々の樹木が、人の手が入らないために山すそから広がる竹林に侵(おか)されつつあります。かつては裏山の竹林は、山崩れを防ぐといわれてきたものです。しかし専門家に聞きますと、それは適宜間伐(てきぎかんばつ)をしていて言えることで、今日のように放っておかれたままでは、竹があまりに密生して陽光が入らないため光を求めて周囲に広がり、その結果、山林が侵蝕(しんしょく)されているのです。本来、土中深く根を下ろす竹の根が横に広がるために浅くなり、山崩れ防止どころか、大雨のときは竹林ごと流れ落ちる危険性があるとのことでした。やはり、人間生活に近いところにある自然物は人間とまさに調和して初めてその生を全うできるのであり、人間と自然はこの空間を共有して互助活動を続けているということでありましょう。
そういう意味でも、このような自然に恵まれた神道山で暮らすことのできる幸せを改めて有り難く思いますが、毎朝、お日の出を迎え拝(おろが)む日拝のたびに深く感じますことは、1本の木、1本の草とも人間は同じ“いきもの”なのだということです。とりわけ日拝式の中心をなす“御陽気修行”をしっかりつとめますと特に顕著ですが、鳴きかよう鳥はもとより1枚の木の葉も、私たちと同じように口を大きく開いて御(み)光を飲み込んでいるように感じられ、それだけに1本の木とも話が通じるのではないか、さらには石ころのひとつとも心が通うような思いに駆られます。
日拝壇への緑のトンネルの石段を上がるときは、“きょうはどんなお日の出だろう!?”と、子供のころ外で遊んで夕方に帰って来て“お母さんただいま! 今晩のおかずは何?”と叫んだときにも似た、わくわくする思いで進んでいきます。日拝式を終えて大教殿に向かうときのこのトンネルでは、心澄んで静かな自分になっていることを実感します。
こういう恵まれた有り難い時と所を満喫すればするほど、緑の大事、自然とのかかわりの大切さを痛感させられます。申し上げるまでもないことですが、まさに“天然もの”の人間が、日常生活の大半を、食べ物をはじめ着る物から住居、生活空間に至るほとんどを人工的なものにしてしまいました。その上、テレビはもとより携帯電話、インターネットを通じて人工的な有形無形のものが、遠慮なく身体にとび込んでくる日常です。この“人工物”と“天工物”ともいえる人間との調和を取ることはなかなか至難の業(わざ)です。よほど心していないとアンバランスを来(きた)し、健康を損(そこ)なったり人間らしさを失ってしまいます。
今さら昔に戻ることは不可能な現代社会に生きる私たちですが、昔の人たち以上に賢く生きることが求められていることは間違いないでありましょう。