平成19年2月号掲載

 昭和28年(1953年)に開局したRSK山陽放送ラジオ(TBS系、本社岡山市)は、開局以来、元旦放送の皮切りとして五代宗和教主様による「新春を寿ぐ」とのご挨拶(あいさつ)を放送するのが習わしとなっていました。その後、昭和49年からは現教主様がその番組を受け継がれ、今年も開局時と同様に元日の午前5時から放送されました。以下に今年の教主様の第一声を掲載します。 (編集部)

 あけましておめでとうございます。
 まず皆様のこのひととせのご多幸を心からお祈り申し上げます。
 お正月の過ごし方も、今日ではまさに千差万別、それぞれのお正月があろうと思いますが、新年を迎えてまた新たな心持ちでこの一年をよりよく生きようとの思いは皆様同じだと拝察いたします。その時にぜひともお心にとどめていただきたいことは、物事の本質、真実を見落とさないようにしようとする思いを大切にしていただきたいということです。
 と申しますのが、昨年の9月、私自身強くそのことを痛感したことがありました。
 9月11日、かねて私どもとご縁のありますオーストラリアのカウラという田舎町にある日本軍人の墓地で、私どもとしますと12回目になる慰霊祭を執り行いました。今回は茶道裏千家大宗匠千玄室師との慰霊献茶祭ということで、私自身が参りつとめさせていただきました。ここには、かつて、先の大戦で連合国側に捕らわれの身となった千人を超える日本兵の捕虜収容所がありました。同じ収容所といってもシベリアに抑留された人々と違って、ここでは格別の好遇を受け、一見のんびりとした平和な日々が続いていたようです。しかし多くの日本兵の皆さんは捕虜になったことを恥じ、互いに実名も明かさず、また多くの仲間が今も戦いさらに戦死していっているのに、自分たちがのうのうと生きていてよいものかと、程度の差はあれ、それぞれ悶々(もんもん)たる思いを抱いていたのです。侃々諤々(かんかんがくがく)の議論も重ね、それは取っ組み合いになるほど激しいものにもなったようです。そして、最終的にトイレットペーパーを投票用紙にしての投票となり、80数パーセントの人が○印を付けて衆議は一決しました。断固戦うべしという結論でした。戦うといっても監視の目は厳しく、武器もありません。終戦1年前の昭和19年8月5日未明、ほとんどの人がナイフとフォークを武器に決起し、その夜だけでも231名が亡くなりました。事が決着したとき、オーストラリア側は監視兵4名も死亡しているにもかかわらず、日本兵の死者を丁重に葬り、生存者の罪は一切問わず、さらには、翌年8月、終戦を迎えると直ちに日本に帰還させているのです。それは世界各地に抑留された日本兵の本国帰還の中でも最も早いものでありました。
 このようなオーストラリア側の態度は何を物語るのでしょうか。それは、悪いのは戦争であって日本兵に罪のないとするのが第一の理由、そして収容所での日本兵の軍人らしい日頃の生活態度から、軍人として戦い戦死したのだから死者は丁重に葬り、戦争が終われば生存者を返すのは当然といった、軍人としての基本的なものがオーストラリア当局にあったからでありました。
 この“カウラの戦い”は、英語ではカウラブレイクアウト(COWRA BREAK OUT)と表現されています。ブレイクアウトとは(戦争などが)起こる、勃発(ぼっぱつ)するという意味と、逃げる、逃亡するという意味がありますが、日本では専(もっぱ)ら“カウラ脱走”、よくて“カウラ事件”と称されてきました。果たしてこれでよいのかとの思いがぬぐいきれないままのこの度の慰霊祭でした。
 神道黒住教式で、千玄室大宗匠の献茶を墓前に奉告し、慰霊申し上げるいわゆる祝詞(のりと)の中で、用意してきた祝詞文とは全く異なる文言で、私は英霊方に語りかけ、申し上げていました。それは、彼ら英霊方が私をして言わしめたとも思える祝詞の文言でした。
 「…武士(もののふ)の心止(や)みがたく捕虜なるの生を捨て日本軍人たるの死を選びてまさに戦い身失(みう)せし汝(いまし)英霊たち…」  なぜか涙が流れ続けました。
 時はこの地にまさに春来たらんとする9月、降り注ぐ陽光のもと、戦後、多くの日本人が植えてきた桜花が今にも開かんとするカウラ日本人墓地でした。
 この収容所にいた千人を超える日本軍人の方々には、当然様々な考え方があり、従って複雑極まりない思いの中での戦いであったと拝察しました。まさに脱走して後に捕らえられた人もありました。しかし、この人々とて一人の民間人も傷つけていないのです。その夜を生きのびて、後に自決をした人もいます。生きて日本に帰還しても家族にさえカウラのことを一言も話すことなく亡くなった人もあります。それを乗り越えてその名も“カウラ会”を結成して、このカウラでのことを伝えようとしている人もあります。
 しかし、いずれの人の心の中にも、まるで果物の芯(しん)、生命の核のように、軍人としての魂ともいうべきものがあったのではないかと思われます。
 今日の平和な時代に生きるお互いが、今のこの時点で、この“カウラの戦い”も“カウラ脱走”にしてしまう過ちは避けなくてはならないのではないでしょうか。
 このカウラでの慰霊献茶祭は、私に、今の平和なわが国も、このように若くして日本軍人としてその命を捧(ささ)げた方々の上に成り立っているということを、痛切に教えてくれました。物事の本質、真実を見落とし、見誤ってはならないという自戒でありました。
 正月早々に重い話になってしまい恐縮ですが、どうか皆様が虚でない実(じつ)のあるこの一年をお送りになりますよう、心からお祈り申し上げます。