追悼文二題

平成18年11月号掲載

本誌2月号で既報の通り、昨年12月25日に神社本庁元総長の櫻井勝之進先生が、また今年1月14日には伊勢神宮元少宮司で本教学事顧問の幡掛正浩先生が、天寿を全うして相次いでご昇天になりました。本教に対しまして格別のご高誼(こうぎ)を賜りましたお二方の御霊様(みたまさま)に、改めて感謝と敬仰(けいぎょう)の祈りを捧(ささ)げます。
教主様にはこのほど、それぞれの先生方の追悼集に一文を寄せられましたので、今号の「道ごころ」に紹介させていただきます。 (編集部)


まこと畏(かしこ)し 櫻井勝之進先生

 去る1月26日、櫻井勝之進先生の本葬祭に参拝の場をいただいた私と副教主の長男宗道は、先生の御霊前に侍(はべ)りひたすら感謝の祈りを捧げていました。
 思い起こしますと昭和49年3月、私は黒住教六代教主就任奉告のため参宮いたしました。教祖の宗忠が、享和三年(1803)に始めて生涯六度の神宮参拝の栄に浴し、二代目のときに千人参り、明治になって三代、四代に亘(わた)って5回の一萬人参りをつとめるなど、本教はお伊勢さまに有り難い御神縁をいただいていました。日本人としては当然のことながら、私どもは先祖の例にならって年々の参宮はもとより、教団としての節目の年には一萬人参りを重ねて来ていました。
 実は、私の教主就任奉告参拝は、また、前年の昭和48年に斎行された第60回の式年遷宮で古殿となった御正宮の御用材を、木片のひとつでも賜りたいとの下賜(かし)願いの参宮でもありました。そのとき、まことにご丁重にお迎え下さった神宮の方々の中心に、櫻井先生がいらっしゃいました。極めて不躾(ぶしつけ)な私の言上(ごんじょう)をにこやかにお聞きとり下さり、会議で諮(はか)って、後日、返事するとのお言葉をいただいて下がったことでした。実はその当時、私どもは160年間教団本部であった所から、壮大な日の出を求めて小高い丘陵地への移転工事を進めていまして、その頃は中心施設であります神殿建築工事も最終段階に入っていました。五月に入ったある日、待ちに待った櫻井先生からのお電話は、できるだけ大きいトラックでやって来るようにとのお言葉でした。まさに天にも上る心地で伊勢に向かった一行が帰って来たとき、トラックには古殿の御用材が山積みされてありました。
 その年の秋、神殿部分のほとんどをこの賜った御神木で設(しつら)えることのできた遷座祭は、感激のるつぼと化しました。翌々年の51年秋、遷座二年を祝う祭りに併せて長男の立志式を行いましたとき、櫻井先生はわざわざ神道山にお参り下さいました。
 先生とこのようなご縁をいただいたおかげで、かつて国連関係者から依頼されて開催した神道国際研究会においても、主要なお役をおつとめ下さり、さらには孫の宗芳の書いた「葉っぱのフレディ」という本についての一文を目にされるや、その訳者、出版元の社長に紹介して孫を激励下さるなど、そのあたたかくも大きなお心を絶えることなく私どもにお注ぎ下さいました。
 一昨年の平成16年春、その宗芳の立志式に際し、28年前の長男宗道のときに思いを馳(は)せられながら、次のような御歌でもってお祝い下さいました。

 八代様の立志式を祝ひて
 祖々(おやおや)の道あやまたずうけ継ぐと
  ちかひも雄々(おお)し八世(はっせい)の君(きみ)
                 勝之進九十五叟(そう)

 先生への敬仰の思い、ますます募る私どもであります。


底、いと深き 幡掛正浩先生

 何年前になりますか、ある宗教関係の会議の席上、わが国の国柄について軽々しい発言に終始した一人の大学教授に、舌鋒(ぜっぽう)鋭くしかも理路整然と迫られた方がありました。宗教者にこのような方がいらっしゃることに感銘し、会を終えてご挨拶(あいさつ)申し上げたのが先生との抑(そもそも)の始まりでした。私どもは毎年1月の参宮を恒例としていますが、爾来(じらい)、お伊勢参りにもうひとつの楽しみが加わりました。言うまでもなく先生にお会いできることでした。就中(なかんずく)、先生と盃(さかずき)を交わす場は、この国の美しくも尊い事柄の数々を教えていただける至福の時でした。
 前回の第61回式年遷宮のとき、その準備のすべてを少宮司としてつとめ終えられた先生は、ご遷宮を前に潔(いさぎよ)く身を退き後進に道を譲られました。各都道府県にご遷宮奉賛会を結成するなどご労苦が偲(しの)ばれましたが、お木曳(きひき)行事に奉仕された若き皇太子殿下を、少宮司として迎えられたときのことを話される先生のお顔は、実に爽(さわ)やかで美しくさえありました。  一方、終戦の翌年、ご郷里の福岡で荒(すさ)んだ青年たちに襲われ一切の抵抗を捨てて彼らのなすがままに任(まか)せ、奥様から「もう死にましょう」と言われて虫の息で一喝されたことを話されたとき、そして、戦艦大和の最期(さいご)を伝えるテープをお聞かせ下さったとき、こうしたときに見せられる先生のかなしみを奥底に湛(たた)えた表情は、正視しえぬものでした。
 少宮司として全国を巡られていたある日、来岡して公務を終えられた先生と食事に出かけることになりました。ご一行の方々とも別れ、学校の先輩後輩ということも手伝ってか寛(くつろ)いだ先生は、奉賛会の進捗(しんちょく)状況などを話しながら店に入られました。ところが、その店の戸を開けて一歩足を踏み入れた先生は、そこでまさに固まってしまわれました。カウンターに池田隆政氏厚子様ご夫妻がいらっしゃったのです。ご夫妻に近づいて深々と頭(こうべ)を垂れた先生は、厚子様御姉上の鷹司和子祭主様の病気お見舞いを言上されました。黙って頷(うなず)かれる厚子様の傍らを辞して、先生と私は少し離れた席に着き、盃にお酒を注(つ)いだのですが、先生は手をつけられません。その内、池田様ご夫妻は軽く会釈をして店を出ていかれました。大きく息を吐きながら、ようやく盃を手にされた先生でしたが、一杯飲むか飲まぬかのそのときに、突然、店の戸が開いて厚子様が入って来られました。驚き起立して御辞儀される先生に「先ほどは姉のこと、ご心配下さり有り難う。姉は元気になりました」とのお言葉。「ハハァーッ」と恐縮しきられる先生。私は横で愚鈍(ぐどん)にもただ棒立ちしているばかりでした。「あーびっくりした。こんなに驚いたのは初めて」と言われながら、うまそうに盃を上げる先生が今も目に焼き付いています。
 これは後に先生から伺ったことですが、後日、神宮での会議で、鷹司和子祭主様の後任として池田厚子様の御名前が上がり、そのご健康を心配する声があったとき、先生が心配ないと断言されて今日の池田厚子祭主様が決まったということでした。
 神宮祭主様を岡山県が戴いていることを県民の一人として有り難く思うとき、併せて先生のご緊張とお喜びの表情が綯(な)い交(ま)ぜになって蘇(よみがえ)ってまいります。

 今年平成18年1月14日、翌日の参宮の準備をしている私に、先生逝去の報が入りました。思わず天を仰いだことでしたが、痴(おこ)がましいことながら、まるで伊勢に向かう私をお待ち下さっているような思いにも駆られ、一層胸せまるものがありました。
 15日、岡山出発を早め、伊勢市における先生の葬儀斎場に侍ることができました。眼を閉じれば瞼(まぶた)の裏に去来するもの走馬燈のごとく絶えず、悲しみの中にも感謝の祈りを捧げ続けました。