感動のお木曳(きひき)行事
平成18年8月号掲載
実に感動的な、まさに“ありがたい”お木曳行事への参拝奉仕でした。
五月二十八日、快晴の伊勢の街を1,501名のお道づれは“エンヤー、エンヤー”の掛け声も勇ましく、木曽の山深き所に三百余年を生きてきた檜(ひのき)の御神木を載せたお木曳車を、二百メートルを超える二本の太い白い縄を曳(ひ)いておつとめさせていただきました。ここには、全国各地の教会所からの上は九十六歳から下は三歳にいたる老若男女の笑顔と喜びが満ちていました。最年長のこの方は、“九十六年生きて来て一番嬉(うれ)しい日”とつぶやき、三歳の幼児は、東京から両親に連れられて四国のおじいちゃんと伊勢で落ち合ってのお木曳でした。
道は続いてこその道であることを絵に描いたような姿に、心うたれました。
それにしましても、前日の二十七日、土砂降りの中の二見興玉(ふたみおきたま)神社に参って“浜参宮”というお祓いを受けるときから始まって、皆様のお顔のなんと美しく輝いているかと感服しきりの私でした。雨でびしょぬれになりながらも、一人として明日のお天気を憂える声の出ないのに驚きつつ、さすがお道づれ!と思い続けていました。当日の早朝、宿を出発するときも傘をさしてバスに乗ったお互いが、伊勢市内に近づくにつれて雨が止み、続々と皆様が集まられるときには雲が切れて青空を仰(あお)ぐことのできるお天気に、私は今年の宗忠神社御神幸(ごしんこう)の日の再現を見る思いでした。案の定、エンヤーの声をはり上げ、お木曳車の車輪がきしみ出すや、待っていましたかのごとくご陽光が降りそそいで来られました。「これは、たしかに何かある。偶然でこんなお天気をいただけるもんじゃない。すごい何かがたしかにある」。エンヤーの掛け声の間に耳に入ったひとことです。まさに大いなる意志、天意のしからしむるところであることを有り難く確信いたしました。
過ぐる四月二日、雨の中を御旅所の儀の執り行われる後楽園に御着(おんちゃく)なった御神幸が、祭典の始まるやいなや、ご陽光をいただいての御祭りとなったのでした。御神幸斎行前日の教祖大祭で、田中愼壹朗(しんいちろう)教務総長と内藤二郎教議会議長が、平成二十五年の第六十二回伊勢神宮式年遷宮ご奉賛を大教殿御神前にお誓い申し上げた翌日のことでしただけに、感激はひとしおのものがありました。それは同時に、私に数えて四十年前の昭和四十二年の御神幸を思い起こさせました。この日、御神幸は前日から降り続いた雨のためお行列が中止となり、御旅所の儀である祭典は宗忠神社拝殿で行われることとなりました。実はこの前日の教祖大祭において“大教殿改築霊地大元拡張”のため、いわゆる“霊地運動”の中心として誰でもが参加できる信仰運動として「一口一日十円献納運動」が教務総長から発表されていました。その翌日の御神幸が雨のためにお行列は中止というのは、暗雲たれこめるような暗いものを感じずにはおれなかったことが思い出されます。時の教主五代様から拝殿での御祭りの斎主をつとめるように言われ、生まれて初めて御神幸の斎主をつとめ終えて教主室に帰った私が目にしたのは、仰(あお)むけに寝て胸をはだけて医師の診察を受けられている五代様でした。心臓発作で倒れられたのでした。その時は十時過ぎ、晴れていれば御神幸は岡山駅前をお通りの時間です。このときの心臓発作は、五代様がご昇天まで四回を数えたその始まりでしたが、実に雨のおかげで一命を救われたことになりました。事情を知った皆様は、雨で五代様が救われたことをわがことのように喜び、天を仰いで拍手を打たれました。
この一口一日十円献納運動は、その後、燎原(りょうげん)の火のごとく広がり、教団内はもとよりご縁ある方々によって一大信仰運動となって、ついに霊地神道山を生む原動力となりました。そして昭和四十九年、今日の大教殿が神道山に竣工なると、新しい神道山時代の信仰運動として一口一日十円献納運動は「ありがとうございます運動」となったのです。
私たちの御道信仰は一日いちにちの積み重ねです。「ありがとうございます運動」は自らに“ありがたい心”の心を養うときでもあります。しかも、その真心が「天照大御神の御開運」に直結する伊勢神宮式年遷宮ご奉賛となるのですから、教祖宗忠の神様の最もお喜びいただける道と確信することです。