母をしのんで

平成18年7月号掲載

 先月号で第一報をお知らせしましたように、五代様ご後室で黒住教婦人会名誉会長の
黒住千鶴子様が、去る5月9日に96歳の長寿を全うして、まさに眠るがごとくに神上られました。
 敬弔号の今号の「道ごころ」には、5月11日の告別式における教主様のご挨拶(あいさつ)を掲載します。御母上をしのびながら、会葬下さった方々に御礼の言葉を述べられる教主様のお姿に、その場に参り集う者が涙したことです。(編集部)

 高い所からで恐縮でございますが、一言(ひとこと)御礼、ご挨拶を述べさせていただきます。
 本日は、母黒住千鶴子の葬儀告別式に公私ともご多用な中を各地各所よりお運びお参りいただきましたこと、母はもとより私ども、心から光栄に、また感激いたしております。まことに有り難うございました。
 大阪から、ここ岡山この地大元に嫁ぎまして七十年、私を頭に五人の子供を授かり、それぞれが連れ合いに恵まれ、九人の孫たちをいただき、さらにその九人がそれぞれ家庭を持ちまして十四人の曾孫を授かるという、まことに母自身、「こんなに有り難い時をいただいて」と、口癖のように話し噛み締め喜んだ一生でございました。
 明治生まれの芯の強さに加えて、戦中戦後の厳しい時は、それなりに辛酸(しんさん)をなめたようでして、それは一層本人の信仰心を養うことにつながったのでしょうか、人はもとより何に対しても、“有り難い”という言葉を自らに言い聞かせるが如(ごと)くに口にする一生でございました。それはまた私、息子にとりましては大きな教訓であり誇りでもありました。
 先ほど来、弔辞で過分なお言葉をいただいたわけですが、終戦ほどない昭和二十三年に、特にこれからの時代、親、とりわけ母親がしっかりしなくてはならないと、そういう駆り立てられるような思いで婦人会を結成し、いわば教内でのそうしたことに力をいたすとともに、有り難いことに世の御用(おんもち)えをいただきまして、家庭裁判所調停委員とか県の教育委員など身に余るお務めをつとめさせていただきながら、それをまた、父の五代教主も誇りにしているようでありました。私の家内に「世に内助の功というけれど、お母さんは外助の功だ」と言って目を細めていたのを懐かしく思い起こします。
 そうした本人にとりまして、何といたしましても、末子(ばっし)が、私の末の弟ですが、十二年前に急逝いたしましたことは何物にも替え難い痛み悲しみ、苦しみであったようです。それを機に、一層信仰が深まったと申しますか、“有り難い”に加えて二言(ふたこと)目には教祖様、宗忠様、さらに主人である先代の教主五代様と、呼びかけ祈るような歳月を重ねました。それがまた、平穏な日々にもつながったかと思います。
 昨年暮れ近くに足腰を弱め、いわゆる床擦(とこず)れになることが度々ありまして、幸い妹の婿(むこ)の病院に、どこが悪いという病気じゃないわけですが、お世話になりまして、それからの毎日は、だんだんと目に見えて、まさに老衰の衰が加わってまいりました。今年の春、この大元の宗忠神社御神幸(ごしんこう)を迎えられるかと危惧いたしておりましたが、それも乗り越えた四月の十一日でしたか、非常に厳しい状態になりました。本部の方から各地の教会所にその旨を伝えてくれましたところ、大変多くの皆様方が、わが親の一大事の如くお祈りを捧(ささ)げて下さいました。まさにそのおかげとしか言いようがありません。医者の言うところ、右肩上がりに衰弱が好転いたしまして、でも、その頃から私が勝手に思うのですが、あれは一人の人間が生まれる時の“つわり”ではなかったかと。さらに“陣痛”がやってきました。それも過ぎていよいよ“お産”近しの非常に穏やかな時間が続きました。本人が結成いたしました、婦人会の総会の五十九回を数える集いが五月八日に終わった翌日の十一時二十二分、その妹夫婦の病院で、長女の大阪から来ていました礼子が見守る中、その礼子が気が付かぬまま息を引き取りました。
 私はこの一連の姿を、私なりに毎日眺め見つめてきまして、人にとって死というのは新たな誕生であるということを、まざまざと身をもって教えてくれた思いがいたしております。大変尊いところを教えてくれたと、改めて、本日もそういう意味で母に御礼ができましたことを息子として有り難く思っております。その上、かくも大勢の皆様方がお心をお寄せいただき、真心をお供え下さいましたことに、御礼の言葉もございません。ただ、頭を下げるばかりであります。まことに有り難うございました。