なつかしくも尊き霊地大元

平成17年10月号掲載

 昨年の立教百九十年、神道山・大教殿ご遷座三十年、続く今年の大元・宗忠神社ご鎮座百二十年を記念して祝い、皆様が尊い浄財をお供え下さったおかげで、記念の事業も着々と進み、いよいよこの月十月十六日と三十日にご鎮座百二十年の記念祝祭をお迎えできますことは、まことに有り難くご同慶至極に存じます。
 記念事業として、とりわけ教祖記念館と旧大教殿の現武道館に耐震補強改修工事が施されて、見ちがえるばかりに美しくしっかりとした建物になりましたことを特に有り難く思っています。教祖神以来の先祖先輩方が、祈り、説き、取り次いでこられた宗忠神社そしてこの両建物ですが、私にとりましてはいずれも、父五代様が生涯かけておつとめになった所だけに感慨ひとしおのものがあります。

 教祖記念館にお参りになった方はご存じの方が次々とあろうと思いますが、昔から広間に「至誠館」と墨書された扁額(へんがく)が掲げられてあります。このことについて五代様からよくお伺いしたことですが、この書は江戸時代から明治初年にかけて国学者として活躍された大國隆正翁の筆になるもので、翁は明治三年に大元に来られ、三代宗篤様の懇請に応えて長逗留(とうりゅう)して若き三代様を指導されたのでした。明治維新直後の混乱のとき、とりわけ新政府の宗教政策がめまぐるしく変転する中で、教団の礎を築かれた三代様にとってこの大國翁の薫陶は大きな力となったようです。  すでに出雲大社の千家真寿様とのご結婚の日取りも決まり、花嫁一行は出雲を出発して岡山に向かっていたにもかかわらず、花婿の三代様はその一行を途中で一カ月間も足止めさせて、大國翁に教えを請い、国学、国史の研鑽(けんさん)に励まれたのでした。翁が今日の教祖記念館を至誠館と名づけられたのも、大元滞在中に逆に学ばれた教祖神の御教えの「誠」に感じ入ってのことでありました。
 今日では神道山の大教殿の東側室に仁王立ちしている大きな衝立(ついた)ての雄渾(ゆうこん)な書も、翁が三代様のために筆をとられたものです。そこには万葉仮名で次のような歌が記されています。
 「立てそむる志だにたゆまずば龍のあぎと(あごのこと)の玉もとるべし 明治三年七十九翁隆正」とあります。
 そこには、若き三代様に対する翁の大きな期待と激励の心が今にひたひたと伝わって来るような力が満ちています。この年三代様は御歳二十三でした。
 この三代様を中心に明治の先輩方の血のにじむような努力は、明治新政府から教団の公認を得、続いて国家神道の枠を超えて布教の自由を得た“別派独立”達成を生み、さらに各地各所の教会所の創立を終えるや先輩方は、いよいよ宗忠神社ご創建にかかられたのでした。
 明治十八年四月、教祖神ご降誕ご立教の地大元に、宗忠神社はご鎮座なりました。三代様にかけた大國隆正翁の期待はここに見事に結実したのでした。

 私が学生生活を終えて白衣の生活に入ったのは昭和三十六年の正月で、それからしばらくは専(もっぱ)ら旧大教殿の御神前で、父五代様の後ろに座って五代様のつとめられる“お祓い”についていく毎日でした。ふっくらとしたその後ろ姿は今も目に焼きついています。五代様のお若い頃まで長命した、教祖神の外孫の方が「宗和さんの座った姿はおじい様そっくり……」と言われていたと分家の年寄りから聞いていましただけに、教祖神ご在世中にいつもお供(とも)していた菱川銀治兵衛さんが、教祖神の御羽織の紋所からいつも目を離さず歩いていたとの逸話(いつわ)を自分に言い聞かせながら、五代様の羽織の背の紋を見つめつつ祈りのときを重ねていました。
 そうしたある日、通称“お松あんばあさん”といわれていた老婦人が参って来て、娘の“幸(ゆき)さん”が手術ということで五代様の御祈念となりました。私はいつものように五代様の後ろについてお祓いを上げ、御祈念も終わって一段下がったところで五代様がお松あんばあさんに挨拶(あいさつ)されようとしたとき、この人はすっと立ってツツツーッと御神前に近づくやいなや、板の斎場をつかむように両手をついて、カッと目を見開きました。何事あらんかと思って見ていますと御神前に向かって吠えるような声で「教祖の神様!この松の娘の幸が生きるか死ぬかの一大事でございます!……ご油断めさるな!!」と叫んだのです。私は、なんということを言う人かと驚き半(なか)ばあきれていたのですが、ふと見ると五代様は、お松あんの方に向いたまま恭(うやうや)しく手を合わせて拍手を打たれたのです。
 控え室に帰った時、「宗晴、見たか。あれが祈りだ。全身全霊を打ち込んだ祈りだ。立派なものだ……。幸さんはきっとおかげをいただく」と話されました。それは、今、思い出しても旧大教殿の御神前ともども鮮(あざ)やかなのですが、実にお松あんという一人のお道づれが教祖神を深く強く信じておればこそ生まれた、烈々たる気迫みなぎる祈りでした。
 御文一二号の「人々の誠のところより、天地の誠のいきものを、よびいだす」の祈りは、このような祈りだと今に有り難く思っています。
 そしてしばらくして、五代様はにっこりして「それにしても“ご油断めさるな”には、教祖の神様も驚かれただろうなあ」と、実に楽しそうに話されました。なお、後日、娘の幸さんと御礼参りしたお松あんばあさんは、まさに喜色満面の笑顔で、それはあの日、御神前をにらみつけた顔とはまるで別人のものでした。

 現在は武道館となった旧大教殿で、週に一、二回程度ですが、子供たちと空手道に汗し、宗忠神社、教祖記念館に頭を垂れるひとときは、私にとって貴重な時となっています。
 神道山に住まわせていただき、毎朝お日の出をお迎えして御日拝できる幸せをかみしめればかみしめるほど、一層、有り難さとなつかしさが募(つの)る霊地大元です。