寄稿二題
平成17年9月号掲載
九州大学名誉教授でわが国における儒学の最高権威であった岡田武彦氏が、平成十六年十月十七日に逝去。享年九十五。
この度、かつて教えを受けた人々による追悼文が発刊されることになり、教主様が寄稿されました。
また、教主様が後援会会長の児童養護施設南野育成園の機関紙「なんや」に執筆されたものをここに転載いたします。 (編集部)
岡田武彦先生に感謝して
ここに「岡田武彦先生追悼文集」のご刊行に当たり、筆を執る機会をお与え下さいましたことはまことに有り難く、まず、先生の御霊(みたま)に心より厚く御礼申し上げます。以前から、先生の高潔なお人柄とその極められた学問の深きことは聞き知っておりましたが、私が謦咳(けいがい)に接しましたのはただの一度だけです。それだけに、この場をいただきましたことを光栄に存じております。
それは平成九年の八月の初めでした。先生を師と仰ぐアメリカ・バックネル大学宗教学教授E・タッカー女史の肝(きも)いりで、儒教、仏教、神道の共通項を尋ねる会が開かれることになり、折から開催の国際陽明学京都会議の議長をつとめるために上洛された先生を東福寺禅堂にお迎えして、東福寺管長福島慶道師と、私も加えていただいての鼎談(ていだん)の場がもたれました。
会はそれぞれの宗教体験の吐露(とろ)から始まり、今日のわが国の伝統宗教といわゆる新宗教の役割、さらに教育問題など長時間、多岐(たき)にわたりました。しかし、特に会の冒頭に述べられた岡田先生の御一言ひとことは、今も私の耳朶(じだ)に残っております。
初対面の私たちの前で、先生がお若いころの御父とご長兄との確執を淡々と述べられ、それが先生の“善”を求める求道の生活に入らせたこと、特に、学徳に秀でた師を求め続けついに恩師と出会われた経緯(いきさつ)を、一語一語噛(か)み締めるように話されました。事実「知行合一(ちぎょうごういつ)」の大事を切々と説かれるときの先生のお言葉はまことに有り難く、心から拝聴いたしました。それはひとり私のみならず、今の時代に対する警鐘(けいしょう)のようにも聞こえました。
そのお話を要約したものを私は手帳に書き留めていますが、その締め括(くく)りのところには「儒学が学問で終わってはならない。実践されなければならない。本当に実践されれば、それは人間性を高めその学問はおのずから救済の宗教になる」とあります。
教育問題に話が及んだときの、先生の次世代、次々世代へのお想(おも)いにはまた格別のものが感じられました。
それは、後に拝読いたしました御著「ヒトは躾(しつけ)で人となる」のご上梓(じょうし)につながったものと拝察しています。
先生はその“まえがき”でまず次のように述べられています。
「『しつけ』教育を子供に施しておけば、その子供の生命力が強固になり、やがては個性豊かな主体性が確立されて、いかなる事態に遭遇(そうぐう)しても無碍(むげ)自在にこれに対処できる真の自由人になり得るでしょう」と。
本文においては「礼」「礼の精神」の大事を説かれ、礼は敬、すなわち「つつしみ」の心であることを一貫して説いていらっしゃいます。それは東福寺での鼎談中、実につつましやかなお姿の中にも度々口にされた「古来、日本人はつつましやかでありました」「私も日本人ですから、つまるところはやはり神道です」とのお言葉と重なって、私にとりましては大きな支え柱とも、激励のひとことともなって今も生きています。
「石井のおとうさんありがとう」を“拝観”して
昨年来、園長の吐原土筆(かなはらつくし)先生が中心となって上映を取り進められていました映画「石井のおとうさんありがとう」を、過日、拝観いたしました。私にとりましてこの映画は鑑賞でなく、まさに拝観でした。それは、石井十次先生の太くも熱いお心に頭(こうべ)を垂れたからであることはもとより、関係各位のこの映画にかけられたひたむきな姿勢が迫って来て、強く胸うたれたからでありました。
石井十次先生が活躍された明治時代は、町や村には乞食(こじき)と呼ばれた物ごいの人がたえず行き来し、ひとたび天災でもあれば親が子を捨てたり売ることも不思議でなかった時代です。このような頃に、孤児たちを育てることに全身全霊を打ち込んだ石井十次先生のような方が居らしたこと、さらには、大原孫三郎氏を筆頭に石井先生の聖業を支える方々が次々と続いていたということに感激いたしました。
と同時に、この映画は、今日の時代に生きる私たちに最も欠けていることを、正面から厳しく突きつけているようにも思えました。それは、人と人との間に通い合う熱いものの欠如です。愛ともいえましょうし、人に対する深い思いやり、人を信じさらには敬う心ともいえましょう。
石井先生は、映画の中でも「親のない孤児よりもっと可哀相(かわいそう)なのは心の迷い子、精神の孤児だ」と忠告されていますが、このご忠言から、人への愛の対極にあるのは憎(にく)しみでも恨(うら)みつらみでもなくて、無関心というひからびた無機質な心だと言った人のひとことが思い出されました。
生みの親にまるで物扱いされ、挙げ句のはては生命まで奪われるような悲惨な事件が、毎日のように報道される今日です。しかも、これらの忌(い)まわしい出来事もいわば氷山の一角で、底は深く広いのが現実ではないかと危惧(きぐ)します。いわば、夫婦はもとより親子の間に流れる熱くも清らかなものが枯れてきている人の多い時代に、私たちが生きているということは否定できないのではないでしょうか。
日進月歩の科学技術は私たちの生活を便利にはしてくれましたが、その分、私たちは肉体の汗も心の汗もかくことなく生活できるようになりました。実は、この汗が夫婦、親子を、そして人と人とを結んでくれる糸であるはずなのに、それを失って、その穴埋めのできないままに日がたっている人の多い現代です。
私どもが微力ながら南野育成園の子供さん方に思いを馳(は)せ、少しでもこの人たちのために役立ちたいという願いも、ひとつには己れに欠けたところをこの子供さん方への奉仕を通じて補ってもらえるからです。
石井十次先生の高きご精神には足元にも及びませんが、先生を支えられた方々の喜び、誇りには何か相通じるものを覚え、一層の奉仕の誠をいたさねばとの思いも強くしたことでした。私にとってこの映画は“石井十次先生ありがとうございました”になり、心ふくらむ思いで帰途につきました。