備前焼作家に学ぶ
平成17年8月号掲載
去る六月三日より七月三日にかけて、岡山県立美術館において備前焼作家の「金重陶陽」展が開催されました。
会場には昨年三月、本教通信講座機関紙「道のひかり」に教主様が執筆された陶陽氏についての一文がパネルにして掲示されていました。今月の道ごころは、その御文をさらに展開されたものです。 (編集部)
昨年、備前焼の人間国宝(国指定重要無形文化財)に認定された伊勢崎淳氏が、この度、備前焼そのものの全容と自作の代表作品を載せた大部(たいぶ)の書籍「備前─火と炎の輝き─」(山陽新聞社刊)を発刊されました。氏から贈られたその本の中で、伊勢崎氏は対談形式で次のようにその作陶の基本姿勢を述べています。
「土を一、二年寝かす。しっかり手で練って使う。土練機を使用した土は、壺ひとつとってみても面白味がない。きれいになるだけで。……機械(ロクロ)だと寸分の狂いもなくきれいにひけるが、面白くもないし、力もない……」。ここに思い出しますのが、備前焼中興の祖と称えられ、備前焼の最初の人間国宝になった金重陶陽氏のことです。
私は中学生から高校生の頃、父五代様に連れられて現備前市の氏の御宅を何度か訪ねていました。十五、六歳から十七、八歳にかけての青臭い私に、本物の陶芸家の生きる姿勢にふれさせることによって、とかく理屈っぽく、合理的という名のもとに浅薄(せんぱく)な言動に走り、ものごとの本質を見落としがちな誤ちを気づかせようとされる、五代様の親ごころであったのだと今にして思います。
ある時、陶陽氏がはっきりと言われたことが今日も耳に残っています。
「今の備前焼は堕落した。その第一はビニール。次にドレンキ、とどの詰まりは電気ロクロだ」とのひとことでした。
“ドレンキ?”、はじめ英語かと思った私は家に帰って辞書を引きましたがもちろんそのような英語はなく、父からそれは土練機、土を練る機械だと知らされました。それだけに今も記憶に鮮明なわけです。次にお目にかかったとき、陶陽氏にお尋ねしましたら、「多くの人は備前の土を乾かさないためにビニールで包んでいるが、それでは土が死んでしまう。土は生きている。莚(むしろ)でおおい、適宜(てきぎ)、井戸水をかけては足で踏み手で練って土を育てることが大切。それを機械で練ったのでは土があまりに機会均等になって薄っぺらなものになってしまうし、その土をまた電気ロクロでひいたのでは土の良さが引き出せず味のないものになってしまう……」というようなことを話されました。
世間の陶陽氏に対する評価が高まるにつれ、私自身も氏の作品に魅力を感じる年になってきて、改めて氏の一言ひとことが強く蘇ってきて今に新しいのです。昨年も、陶陽氏の令息で同じように備前焼作家の晃介氏にお目にかかったとき、御父上のことが話題になりました。彼は「父は備前で誰よりも早く土練機を使い、また電気ロクロも最初に使った人だと思います。それらを使った上で、何が大切かを再確認したのだと思います」と静かに語りました。
その陶陽氏にして「いずれ古備前のすり鉢のような、て。ら。い。のない、とらわれのない自在な境地で作陶したい」と言われていたのですから、人が目指すところは同じなのだと改めて思います。
この欄でも度々、申し上げてきたことですが、茶道や華道、書道、そして武道の世界で言われる「守、破、離」は、人が生きる上での大きな三段階であるということです。まず物事の基本を学び、基本を忠実に守。り、基本という枠の中に入り切ってその上で枠を破。って、初めて真の個性が出てくる。そして究極は、作意を捨て、すべてを離。れての自由自在の場に入る。いわば「我を離れ」て、有り難い嬉しい楽しい心いっぱいに、本当の自由な世界に生きるということです。教祖神のお説教が浮かびのままの「天言」であられたことなど、まさに我を離れた自在の境地にいらっしゃった証(あか)しでありましょう。
ところで、釉薬(ゆうやく)を使わない焼き締め陶の代表的な備前焼は、それだけ土に負うところが大きい焼物ですが、それは化粧していない、飾り物をつけていない人間そのもので、人生において最終的に問われるのが真の人間力ともいうべき、その“人となり”にあるところと似ているように思われます。それだけ、作る人の人間性がそのまま表れ、その人自身が伺えるのが備前焼であるとも言えます。陶陽氏は、つまるところ、己れの奥深いところからいかに真の力を湧き出させ、いかに作品に注ぎ込むかに腐心(ふしん)されていたように思います。
ビニールを拒否しての土づくりは、あたかも昔の杜氏(とうじ)がお酒を醸(かも)すにも似たものを思い起こさせますし、ロクロを中に陶陽氏に対座する夫人にロクロを手で回してもらって成形している姿は、まるで赤子を育てる夫婦のような雰囲気でした。
いずれにしましても、その作陶の行程はすべて人力で、機械に頼らず、従って無機質な流れは一点もなく、傍(かたわ)らで拝見するものには息が詰まるような厳しい時間でもありました。私自身、年を重ねるにつれて、父五代様はすばらしい時に身を置かして下さったものと、その深いお心に胸熱くなります。
それは、後に親しくしていただいたお道づれの藤原啓氏(陶陽氏の昇天後、人間国宝になった)や、その甥(おい)で大教殿の千木鰹木(ちぎかつおぎ)棟瓦を制作献納された建氏にも感じることのできた世界でした。
言わず語らずのうちに、このような心ある備前の作家方は、わが内なる魂、それはまさに天地に通ずるご分心、そこから大御神様のご神徳という御力を得て、いかにそれを作品に込めるかを最重要視されていたのではないかと私は思っています。いわば、ご分心からのご神徳という“熱”の“伝導率”を下げないように、逆にどうすれば“熱伝導率”を高められるか、いかにすれば“熱”そのもののボルテージを高めることができるかに心していたように思われます。彼らが、祈りの時間を大切にしておられたこともむべなるかなと思います。
このことは、ひとり備前焼の作家にとどまらず、私たちお道づれとしての生き方の上においても学んでいかねばならないところと痛感しています。