ユーモアあふれる教祖神

平成17年7月号掲載

 ご在世中“にこにこ先生”と多くの人々から親しまれていた教祖神は、御教えの上でもにこにこ先生にふさわしくユーモアあふれる御教えを私たちにお与え下さっています。
 いつもおかげをいただく例の「みきの御歌」
 有り難きまた面白き嬉しきとみきをそのうぞ誠なりけれ(御歌三七号)
 は、その最たるものです。
 教祖神がある御宅に招かれてお参りの皆様とまず御神前ご拝というとき、あたふたとその家の夫人が出て来て、御神前の“御神酒(おみき)”が燗冷(かんざ)ましのものだったのでとり代えることを申し出たところ、「では、おみきは私がお供えしましょう」と言って詠(よ)まれたのがこの「みきの御歌」です。有り難き。面白き。嬉しき。という感謝感動、喜びの三つの“き”をおみきにかけられ、しかも“そのう”を平仮名にして御神前に“供(そな)える”と自らの心に“備(そな)え”持つとをかけられた、ユーモラスな中にも深い道味のある御神詠です。教祖神ご自身も、とっさに、ふと浮かび出たこの御歌を、大御神様がお与え下さった“天言”といたく感激して、後に書き残されたとき
 わが国の信心のこころをよめるとの副題をつけていらっしゃるところにもこの御歌の尊さが分かります。
 有名な「難有り有り難し」の御教えにしてもそうです。とかく重く、悲壮感さえただよいがちな災難、病、不幸という難を、明るく有り難い心で受け止めるところに道は開けるのだと「難有有難」と、ウィットに富んだ形で御教えになっているのです。教祖神ならではの感を深くしますし、その大きな御心にたっぷりとご陽気が満ちていらっしゃればこそ生まれた御教えだと思います。

 言葉は、言霊あるいは言魂とも書いた“ことだま”が語源だといわれます。言葉には魂がある、言葉には命があるということです。教祖神は、刀は身を切るが言葉は人の心を切るから、言葉には格別注意しなくてはならないとご忠告になっていますが、人を生かしもするし殺しもするのが言葉です。
 教祖神の言葉づかいの確かさ、生きてお使いになる御心はまさに神業(かみわざ)です。
 「道は満(みつる)なり」で始まる御文一四三号はその最たるものです。
 「一(ひとつ)、道は満なり。天照大御神の御分身(ごぶんしん)のみちて欠けぬよう遊ばさるべく候。人は陽気ゆるむと陰気つよるなり。陰気かつときはけがれなり。けがれは気枯(きが)れにて、大陽(だいよう)の気を枯らすなり。そのところから種々(しゅじゅ)いろいろのこと出来(しゅったい)するなり……」
 天照らす神のみ徳は天(あめ)つちにみちてかけなき恵みなるかな(御文八五号御歌)と、高らかにうたい上げられているように、すべてを生かし育(はぐく)む大御神様のご神徳は天地に満ち満ちて欠けることがありません。生かしていこう育てていこうとするその大いなる御働きを信じ、有り難くいただいて生きていく道がまさに神道です。
 しかし、大御神様の御分身であるご神徳が満ち満ちている道におればこそのお互い人間であるにもかかわらず、生かし育てられている私たち自身がその尊さ有り難さに気づかず、心の陽気を欠き陰気になり、心を汚し傷めゆがめがちなことは、まことにもったいないことです。世にいうけがれとは、大御神様の御分身であるご神徳という大陽の気を枯らす“気枯れ”と仰(おっ)しゃるところ、まことに当意即妙な中に尊いところを御教え下さっています。
 また「祈りは日乗り」とお説きになるのも同じで、
 「祈りは日乗りにござ候由(そうろうよし)、本体の祈りにて、かなわぬことは無きことなり」(御文四四号)
と、信心の神髄を厳しく説かれる中に、そのおおらかなあふれるばかりの御心が伝わって来る有り難い御教えです。これも御日拝に始まる日々の“日乗りなる祈り”から生まれた生きた御言葉です。

 ところで、神道山の赤松が松くい虫に侵(おか)されて少なくなってきたのを機に、これではならじと皆様と植樹につとめてきて十二年、深根(直根)の切られていない常緑の木々はまことにたくましく生(お)い茂り、神道山は今日いうところの里山としても見事な山々になってきました。それにしましても、土中にあって目には見えませんが、根っこの大切さ根を養うことの大事を改めて教えられている“神道山緑化運動”です。
 私たちが“願いの成就”という果実、“幸せ”という青々と茂る緑を求めるならば、根をしっかりと養わねばそれは成らぬことを、教祖神は「願いは根培(ねか)い」と教えられました。これまた心にすっと入ってくる素晴らしい御教えです。申し上げるまでもなく、私たちの根はわが親であり祖父母、先祖先輩です。
 赤木忠春高弟が詠んだ
 親の親その親々をたずぬれば天照します日の大御神
は、今日ある私たちの根の深さ、直根の尊さを教えて下さる有り難い道歌です。
 こういう観点に立ってみますと「幸せはしわ合わせ」といって、手の平のしわを合わす合掌の姿こそ幸せを生む元と説いてきたわが国の先人の素晴らしさにも敬服します。また「働くとはは。た。を楽にすること」すなわち、周囲の人に幸せを与え、人のため他のためにまごころを尽くすことが働くことであると、仕事、勤労の本義をこのようなシャレでもって語ってきたわが日本人の心の豊かさに感服します。
 さらに、「祓いは神道の首教なり」と祓いを尊ぶ本教にあって「笑いは祓い」と教え導かれた教祖神の大きな御心に、少しでも近づきたいとの思いも新たに湧(わ)いて来ることです。