志高き人々

平成17年5月号掲載

 申し上げるまでもないことですが、今年は日露戦争百年、先の大戦終戦六十年の年に当たります。今さら戦争のこと…と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、六十年間も平和であったわが国なればこそ、戦争に身失せた方々に思いをめぐらせ霊安(みたまやす)かれと祈るのは、今日に生きる私たちの大切なつとめだと信じます。それは戦役(せんえき)に身を置いた方であろうとなかろうと、等しく戦争で亡くなった方への私たちの責務と言っても過言でないと思います。ここに、この二つの戦争にまつわる私どもにご縁深い事柄を認(したた)めます。
 いずれも今までにもお伝えしてきたことですが、戦争という国の命運を懸けた場に居た人がとられた行為だけに、今日の私たちが果たしてそれだけの行動ができるかと思うと一層、仰ぎ見る思いが募(つの)ります。とともに、戦争に命を失った人々は決して犬死にでもなければ、自暴自棄によるものでもない、それどころか高い志の中に、短いながらもその人生を生き切った人が次々とあったことを、今日の私たちは見誤ってはならないと思います。

 明治三十八年(一九〇五)五月二十七日のいわゆる日本海海戦で、当時、世界最強といわれたロシアのバルチック艦隊を迎え討った日本側の総指揮をとったのは、東郷平八郎司令長官でした。氏のご母堂は本教とのご縁深く、東京の教会所にいつもお参りになり所長岡田敏子(ときこ)先生のおみちびきを受けていました。そういうご縁から東郷司令長官は日本海海戦のさ中、教祖神御神詠の
 身も我も心もすてて天(あめ)つちのたったひとつの誠ばかりに
を吟じ続けられていたということが、本教に伝えられています。
 日本側の勝利が決まるや、東郷司令長官の下した命令は、海に浮かぶロシア兵を一人残らず救えということでした。今の今まで戦争というむごくも厳しい場にいた兵士が、上官の命令とはいえ、直ちに海に飛び込んでまでしてロシア兵を助けるのに懸命になったのですから驚きます。これは実に、日本人兵士一人ひとりの志の高さがなければできなかったことだと思います。なお、捕虜となったロシア兵は、長崎の雲仙と松山の道後温泉などで治療を受け静養して、元気になった人から順次ロシアに送還されたのでした。
 私は今年の十一月、久しぶりに島根県の湖北教会所に祝祭で参るのを楽しみにしていますが、昔、この教会所の教師に岩成忠右衛門という方がありました。この人は、日本海海戦の数日後、海岸に流れついたロシア兵の遺体を火葬にして自宅の墓地に埋葬までした方です。「かわいそうに。この子も故郷には親も兄弟もあろうに。国のために命を捧げたということでは日本人もロシア人もかわらぬ…」と言って祈り、遺骨を引きとったと伝えられています。なんと志の高い人でありましょうか。

 昨年の八月、オーストラリアのカウラ市で副教主ら日本からの宗教者たちと現地の聖職者とで、六十年目になるカウラ戦没者の慰霊祭が執り行われました。このことも本誌昨年十二月号の本欄などで度々お伝えしてきたことですが、カウラの日本人捕虜収容所の千余名の兵士たちは、終戦一年前の昭和十九年八月五日未明、ほとんどがナイフとフォークを武器に警固のオーストラリア兵に挑(いど)み、その夜だけでも二百三十余名が戦死したのでした。オーストラリア側にとっては許すことのできない暴挙のはずですが、彼らは生き残った日本兵士の非を全くとがめず、それどころか一年後に終戦を迎えると直ちに全員を日本に送還させてくれました。しかも戦死した日本兵をすべて丁重に埋葬し、そこは今日まで草一本生(は)えていない清々しい墓地として管理されてきました。この暴動ともいえる日本兵士の決死の行動を、単なる暴挙と見なしていないオーストラリアの人々の志の高さに、私は心底から敬服しています。それはまた、彼らが日本兵士の心に心うたれた証拠だと思います。

 倉敷の水島にある石油会社に、かつてサウジアラビアから青年たちが研修に来ていました。その中の一人ハウサイという二十歳の青年は、人づてに聞いて大元の武道館に空手道を習いに来ていました。二、三カ月ほどたったとき、彼が不思議そうにまた悲しげに言った言葉が忘れられません。「なぜ日本の若い人たちはゼネラル(元帥)・トーゴーのことを知らないのですか」と。私は早速、宗忠神社境内に立つ東郷平八郎元帥の筆になる「宗忠神社」の社名碑の所へ彼を連れて行って、本教とのご縁などを話しました。
 サウジアラビアでは、有色人種が初めて白人との戦いに勝ったという意味で、日露戦争における日本そして東郷平八郎元帥について、このような世代の人にもしっかりと教えているのでした。それは同時に、有色人種の人々が、いかに白人社会から痛めつけられてきたかの証(あか)しでもありました。
 オーストラリアは、イギリスからの移民が主体となって建国なった若い国ですが、アボリジニと呼ばれる先住民が太古の昔から生活している所です。イギリスからの人たちは、この先住の有色人種を人間扱いせず、彼らは今日の私たちには想像もつかない不幸な歴史を重ねていました。しかし、第二次世界大戦で日本という有色人種の国と戦った上にベトナム戦争がきっかけで、オーストラリアは“白豪主義”という白人優先社会の過(あやま)ちに気づいたといわれます。
 厳然たる事実は、六十年前のあの大戦の終戦以来、白人支配の植民地が音を立てて崩れ、それぞれがひとつの国として独立していったことです。
 戦争はあまりにむごく、数多くの戦死者、悲劇を生みますが、この方たちの死は決して犬死にではなかったし、またその死を無駄にしてはならないと改めて思います。