福光司教、百一歳の昇天

平成17年4月号掲載

 大教殿前司教、大井中教会所所長福光佐郎大人(ふくみつすけおうし)が、百一歳の長寿を全うして去る三月七日未明、悠然(ゆうぜん)と昇天されました。本教の多くの教師お道づれが、師としてはもとより父とも慕った方であり、百九十余年の教団の歴史の中でも百歳を超えた現役所長の昇天は例がなく、淋(さび)しさの中にも改めて感服し敬仰(けいぎょう)の思いが一層募(つの)ったご昇天でした。
 とりわけ私にとりましては、福光司教は父五代様と同年であった上に、教主就任の翌年に神道山にご遷座なった大教殿で共につとめた仲であるだけに、その間の十七年余が走馬灯のように脳裏をかけ巡り、言葉に言い表せぬ思いにひたりました。
 実に数多くの方が“私の福光司教”“私の所長先生”“私の福光先生”をお持ちだと思いますが、私が個人的に強いご縁を感じたのは四十五年もの昔ですが、新見(にいみ)(岡山県)生まれの家内との結納を交わした直後のことでした。すでに大阪大教会所所長を兼務していた大人はわざわざ霊地大元に来てお祝い下さったのですが、昭和の初め、お道教師となって初めて赴任した新見教会所常勤教師の頃のことを、感慨深く話されました。
 「それはそれは、田原様ご先代ご夫妻様にはお世話になりました。一人住まいの私のことを奥様の一女(かずめ)様は何かとご心配下さり、ご主人の仙太郎様は、その頃傷みの激しかった教会所の大屋根をお一人で新しい瓦に御屋根替えして献納下さいました。御二人は、若い私が御道の教師として一人立ちできる力をつけて下さった御方で、ご恩は忘れることはございません。その御二方のお孫様とのご婚約、まことにおめでとうございます」。その時の一言一句、今に忘れ難い丁重な慶びのお言葉をいただいたのでした。

 その後ゆっくりお話しする機会もないままに時が過ぎていきましたが、五代様の突然のご昇天、続く私の教主就任、神道山時代の到来の中で、懇請してご就任いただいた大教殿司教でした。私にとりまして有り難くも尊いときとなったのは、毎朝の御日拝を共につとめた後の、鶯鳴(おうめい)館の私の部屋で二人でとる朝食の時間でした。それは、お道づれの皆様が神道山に教主公邸をお建て下さり、家族が大元から移り住むまでの五年間近く続きました。すでに長きに亘(わた)っていた御道人生、その修行、感動的な有り難い数々の体験、博学な知識、いずれも私にとって心清められかつ発奮させられる一言ひとことでした。なかんずく忘れ難いのは、その一生を貫かれた“御陽気修行”でした。
 青年期、身も心も脆弱(ぜいじゃく)だった大人は、これでは人生の荒波を乗り切られない、なんとか心身を強くしたいとの思い一心でいたときに御道とのご縁を得られたのでした。教祖宗忠神の御教え、その“みせぶみ”を学ぶ中に、とりわけ、宗忠様ご自身が重病の御身を御日拝によっておかげを受けて本復され、昇るお日様を呑(の)み込んで天地一体になられて立教なったときの「御陽気をいただきて下腹に納め、天地と共に気を養う」こそ、“わが身にとって最高最大の修行”と確信されたということでした。それからというもの、御日拝はもとより、一本でも数多くつとめるお祓い修行もすべて御陽気修行のときとなりました。それはまさに御神詠の「若い人死にともなくばいきめされいきさえすればいきらるるもの」(御歌二〇八号)をそのままにいただかれた日々でした。さらに御道教師を志願して教師の列に加わって大元・宗忠神社に奉仕し、前記の新見教会所を経て創立間もない現在の浅原大教会所に赴任され、室山元初代所長に“布教魂”をたたき込まれたのでした。

 卒寿も超えたある日、久しぶりにお目にかかったとき、福光司教は「このところ一日二百回の御陽気修行につとめています」と淡々と語られました。悠揚(ゆうよう)迫らぬ“にこにこ先生”“心はればれ司教”に、明治の先輩の詠(よ)まれた「道ごころ臍下(せいか)に深くたくわえてきょうも悠々(ゆうゆう)あすも綽々(しゃくしゃく)」が思わず口をついて出ました。
 このところ呼吸法がちょっとしたブームになっていますが、御陽気修行は単なる呼吸法ではなくて、「天地の大陽気」である御陽気を有り難くいただいて下腹に納めるつとめです。身体的には下腹を中心に呼吸するわけですが、一息ひといきをご神徳をいただく心づもりで味わいかみしめ有り難くいただくことが肝心です。
 二月五日午前十一時すぎ、福光司教は往診して下さっていた倉敷の松田病院(編集部注・松田家は教徒)からの医師の目の前で、血圧が急激に低下し無呼吸状態に陥ってしまいました。家族親族に急を知らせる一方、大教殿では直ちにご祈念が始まりました。まことに有り難いことには、しばらくして再び下腹が上下に動き出すとともに呼吸が戻り血圧も次第に上昇、しかもその日の夕刻、「明日は皆さんお伊勢様ですな。私は心参しますからしっかりおかげを受けていらっしゃい」と話されたそうです。医学の常識を超えたこの姿にお医者様も、ただ手を合わすだけだったとのことです。
 三月七日午前一時半すぎ、同じ部屋で仮眠していた娘婿(むすめむこ)の佐泰(すけやす)副所長は、福光司教の大きく口を開いて御陽気をいただく音に目覚めました。再び大きく御陽気をいただいた福光司教は、そのまま、まさに息を引き取られました。堂々たる昇天でした。
 出張先の鳥取で、御日拝前にこのことを知らされた私は、この時節、山陰には珍しい雲ひとつない青空のもと、山の端(は)から昇るお日の出に教祖神と一体の福光司教を見る思いで感激の御日拝のおかげをいただきました。目の前に広がる湖面に“日柱”のごとく立ち輝く光は、ご陽光と一体になって私を包み込み、格別の御陽気修行を満喫いたしました。
 福光司教の“生き通し”を確信すると同時に、頭の中には数々の思い出がかけ巡り、眼(め)を閉じれば御光の中にその丸き温顔が浮かび来て涙とともに、しばし止むことはありませんでした。