“心なおし”“病なおし”(上) ─私の教わってきたもの─
平成17年2月号掲載
教主様は昨年、岡山市医師会の会報誌に「“心なおし”“病なおし”」と題する一文を寄せられましたが、同誌には「病もみるが人もみる。つまり、患者さんが『心で』納得できる治療を行うことにより病も早く改善すると思いました」という“あとがき”が記されていました。
今号と次号にわたり、そのご文を掲載いたします。 (編集部)
古来“病は気から”といわれますが、黒住教の宗忠教祖はこの一言をまさに地で行って病に倒れ、“心なおし”が病を克服することにつながった体験の持ち主でした。幼い頃から人一倍親想いの宗忠は、赤痢などの流行病で相次いで亡くなった両親への思い絶ち難く、悲嘆にくれ、ついに肺結核で床に就きました。文化九年(一八一二)三十二歳の秋でした。今村宮という池田藩の守護神社の神主の跡継ぎということもあってか、御典医の治療も受けたようですが、翌々年の正月過ぎには明日をも知れぬ重態に陥っていました。
文化十一年(一八一四)一月十九日(旧暦)早朝、家人に支えられて最期の別れを告げるべく旭日を拝む“日拝”に臨みました。これとても、幼児期から両親と毎朝東天に手を合わせていた歳月が蘇らせたものでした。実はこの日拝が“回心”の動機となりました。旭日の中に両親の心を見た宗忠には、自らの非を悔いる思いとともに、せめて心だけでも立ちもどらねば両親に対して申し訳が立たぬ思いが募ってきました。心に明かりが入ったということでしょうか、この時をきっかけに、病に伏して以来初めてのことだったようですが、夫人に対する感謝の念、わが子の成長を喜ぶ親ごころ、さらには死を眼前にして湧き出た自身の生への感激で心は満たされていきました。
後年、教祖として立ってから詠(よ)んだ歌に、「有り難きことのみ思え人はただきょうの尊き今の心の」とありますが、このどん底からの日々が生んだものと思われます。
病は“うす紙をはぐが如く快方に向かい”二ケ月後には本復しました。このような体験が元となって、後に悟りを得て自然発生的に宗教教団が誕生し、今年(平成十六年)は百九十年になります。
いずれの宗教にもその草創期に共通するところでしょうが、特にこのような経緯をへて教祖誕生となった黒住教では、“心なおし”が“病なおし”につながる布教活動がその大きな場を占めてきました。
私自身、幼い頃からいわゆる“おかげを受け”て病が癒(い)えた人のことをよく聞かされ、またその感激で涙する人々を見て育ちました。一方、昭和二十年の終戦の年に小学校二年生だった私は、戦後教育の走りの世代でもありました。それは、民主教育であると同時に科学教育ともいうべき教育環境の中での年月でした。“信仰して病気がなおるのなら医者はいらぬ”とか“それは迷信にすぎない”等が世間一般の見方であり声であって、家に帰れば前述のような“信仰して病気がなおった、有り難い”の話でもちきりでした。青年期、およそ信仰生活とは縁遠いところにいた私ですが、その心中は“股裂(またさ)き”にあったような、大げさにいえば、宗教と科学の葛藤(かっとう)のようなものが常にある中での生活でした。
学生時代の終わり頃、目をかけて下さった方に、京都大学の医学部長から総長になっておられた平澤興(ひらさわこう)という方がありました。平澤先生は、若くしては新潟医科大学、戦後は京大医学部教授として数多くの医師、医学者を育てて来られた方で、そのお人柄を慕う人は今も後を断ちません。ある日お目にかかってお話を伺っている時、ハンス・セリエのストレス学説を紹介しながら、
宗忠教祖の歌、
「有り難きまた面白き嬉しきとみきをそのうぞ誠なりける」を口にされ、「この歌の精神こそ人間が心身ともに健康である元だ」と話し、「君の責任は重いぞ」と激励して下さいました。
この歌は宗忠のユーモラスなところも伺われる歌で、いわゆる“御神酒(おみき)あがらぬ神はなし”の“おみき”に“三つのき”、すなわち“有り難き、面白き、嬉しき”をあて、また、わざわざ平仮名で“そのう”と記して、神に供えるのと、自らの心に備え持つの二つの言葉をかけて説いています。しかも、「我が国の信心の心を詠める」と添え書きしているところにも、宗忠自身がこの歌を重んじていたことが分かります。いわば、前記の「有り難きことのみ思え…」の歌の心が大成したものと私どもは受けとめていますが、この歌も元をたどれば重病の身から回復した体験にあることはいうまでもありません。
とにかく、青年期の私にとって尊敬する平澤先生のお口から出たこの歌は、初めて医学という科学と黒住教という宗教の懸け橋となって、私の中で大きな礎石(そせき)となりました。
三十代の半(なか)ば頃、縁あって当時九州大学医学部教授であった池見酉次郎(いけみゆうじろう)先生と対談の機会を得ました。先生は名著「心療内科」で一世を風靡(ふうび)し、著書の名の通りわが国における心療内科の草分けの方でした。先生は「病は気からの医学」がご自身の専門だと語り、心と身体の深い相関関係を素人の私にも分かりやすくお話し下さいました。とりわけ、宗忠の両親の急逝から肺結核に倒れ回心して健康をとりもどしていく課程が、先生の研究にひとつのヒントを与えてくれたとのご発言は、私にまた医学と宗教とを結ぶ新たな橋渡し役となりました。 (以下次号)