霊地大元に込められた心

平成17年1月号掲載 謹賀新年
 昨秋十月から十一月にかけて斎行された立教百九十年・神道山ご遷座三十年の記念の祝祭も、ご神徳とは申せ、皆様の熱いお祈りと奉仕の誠のおかげで無事盛大に終えることができました。まことに有り難く心からご同慶に存じます。
 そして今年は、大元・宗忠神社ご鎮座百二十年の年を迎え、十月にその記念祝祭が執り行われますことはまた有り難い極みであります。
 特にこの二年にわたる節目の年に、霊地大元の教祖記念館、旧の大教殿を中心に記念の工事が、皆様のまごころの奉仕によって進められ、昨年末、まず旧大教殿の黒住教武道館が耐震補強工事を中心に立派に改修されました。このことは、私にとりまして言葉に言い表せぬ感激であります。申し上げるまでもなく、教祖記念館は教祖神の最晩年に建築なったいわば第一号の大教殿で、教祖神ご自身のご住宅でもあり、しかもご昇天になったお部屋のある建物です。教祖神に次いで二代、三代、四代、五代様がここで祈りかつ住まいされ、私自身も高校の二年生まで生活させていただいていました。
 旧の大教殿は、神道山ご遷座まで四代様、五代様をはじめ先輩諸氏の祈りの中心であり、五代様は神道山に大教殿が新築なってご遷座なる前年の昭和四十八年五月にご昇天になっているだけに、今日、神道山に住まわせていただき、お日の出を迎え拝(おろが)み仕え奉る大教殿にいます私にとりましては、この度の旧大教殿の改築には感慨ひとしおのものがあり、大きな感激であります。とともに、本教立教の源である“孝”の心の大切を改めて全身にしみわたるように感じています。
 一方、肝心の宗忠神社はと申しますと、有り難いことに百二十年を経た今もほとんど修理する箇所もなく、ただ、万が一を考えて床下部分を補強する程度で記念の年を迎えることのできますことをまことに尊く有り難く思います。改めて、宗忠神社建築にかけられた先輩方の至誠に感服するばかりです。

 皆様ご存じのように、大元の宗忠神社ご鎮座に先立つ二十三年前の文久二年(一八六二)、時の王城の地京都に宗忠神社はご鎮座になりました。これは、教祖神直門(じきもん)高弟の赤木忠春先生の赤誠(せきせい)こもる布教が結実したものでありました。と同時に、時代は徳川幕府の終末を迎える頃、わが国の周辺には西洋の列強が迫り来て、天皇陛下を柱とした確固たる国づくりの急が叫ばれるときで、教祖神の明らかにされた「天照大御神の大道」が、今日言うところの日本人のアイデンティティー確立に大いなる力となったからでありました。時の帝(みかど)、孝明天皇は教祖神に「宗忠大明神」の神号を与えられ、全国の神社を取りしきっていた吉田神社はその境内地の東南の高台を宗忠神社建築地として提供され、ご鎮座なった宗忠神社は孝明天皇の仰せ出された唯一の勅願所(ちょくがんしょ)となったのでした。国事に関するご祈念も五十件を超え、しかも、ひとつ間違えると、応仁の乱(注1)の再現となって京都の街は火の海となったであろうと今に伝えられる「蛤御門(はまぐりごもん)の変」(注2)のときのご祈念は、本教祈りのひとつの原点となっています。
 時代の全く違った今日の世に生きる私たちが軽々しいことは言うべきでないと思いますが、当時の教師お道づれにとって想像もつかない“重大事件”の連続であったと思われます。

 明治の時代になって、国家神道の枠組みの中にあっては本教の独自性が失われる、さらに人の心に直接にかかわる宗教をあまりに国家の統制の下に閉じ込めることは国の将来を誤まらせることになるとの真に国を思う心から、若き三代様は明治政府と厳しい折衝(せっしょう)を重ねられました。前後六年のご苦労の末、明治九年十月、本教は他の教団に先がけて国家の統制から解き放たれた「別派独立」を果たしたのでした。
 姿なき身とはなるとも天地(あめつち)の誠の道のさきがけやせん
とは、三代様が当時の心境を詠(よ)まれたものです。
 このような、わが国の宗教教団の歴史の中でも稀有(けう)な困難な問題を解決できたのも、ひとつには本教の背後に孝明天皇のご信仰があったことは否(いな)めないところでありましょう。
 明治九年の別派独立を待っていたかのように、全国各地に教会所建築の槌音(つちおと)が響き、これらの完成を機に明治十一年、待望の大元・宗忠神社建築の動きが始まったのでした。
 いわば、宗忠神社ご建築に至るまでの歳月そのものが、当時の先輩方にとって血湧(わ)き肉躍るような感動の歳月であったと拝察されます。もちろん、その感動が生まれるための胎動ともいえる艱難辛苦(かんなんしんく)のときがあったであろうことは、想像するに難くありません。
 とにかく、待ちに待った宗忠神社が、教祖神ご降誕の地、ご立教の地、霊地大元に建つ!の感動は最高潮に達したと思われます。良質の建築材はもとより地下深くに至る完璧(かんぺき)なまでの基礎工事、そして秀れた宮大工の丹精込めた建築の技は今に先輩の心を伝えてくれます。
 明治十八年四月、大感激の中に竣工祭を迎え、続く翌年明治十九年に御神幸を始められるのですから、先輩方の信仰心の深さ、愛教の誠ごころ、そして気宇(きう)の壮大さに驚嘆します。しかも、教団としての神恩感謝の念いっぱいに、明治二十一年伊勢神宮に「神宮一万人参拝」を挙行されているのです。この一連の動きの中に、今日の教団のまさに原点があります。

 ところで、宗忠神社拝殿の回廊には、いくつかのまるでスプーンでプリンをすくいとった跡のようにへこんだ所があります。これらは、昭和九年九月二十一日の岡山大水害と昭和二十年六月二十九日の岡山大空襲のときに、大元に逃(のが)れてきた被災者の方たちが使った“七輪(しちりん)”の火の跡形(あとかた)なのです。私は、これらは宗忠神社の“勲章”で、教団の枠を超えた県民市民の信頼の証(あか)しであると誇りに思っています。
 この信頼、信用の信を、信仰の信に大きく育ててまいりたいと心を新たにすることです。


(注1)応仁元年(一四六七)から文明九年(一四七七)にわたって京都を中心に続いた内乱。京都は焼土と化し、以後、戦国時代になる。
(注2)元治元年(一八六四)、尊皇倒幕の急先鋒であった長州藩兵が京都御所西外郭の“蛤御門”(禁門)付近で、御所を守る諸藩の兵と交戦した乱。