神道山ご遷座への歩み

平成16年10月号掲載

 昭和四十九年十月二十七日午前三時半、それまで百六十年間もの長きにわたり教団本部であった霊地大元から、大教殿が神道山にご遷座なって三十年。その間、広く人のため世のためにお役に立つことのできる教団であるべく、様々な教団活動が展開されてきました。
 この節目に当たり、かつてご造営本部長として教団の中心にあって、神道山へのご遷座に誠を尽くされた教主様にご遷座なるまでの年月を振り返っていただきました。 (編集部)

 ─神道山へのご遷座の動きが始まったのは、いつ頃のことでしょうか。

 教主 昭和三十九年が、今日の神道山に至る実質的なスタートの年といえます。この年の十月、立教百五十年大祝祭が執り行われました。実はその年四月、時の当局、大森康生教務総長が大祝祭を前にして急逝されたのです。教団は生みの苦しみを味わうことになりました。実は、その大森当局の時(昭和三十八年ごろ)、岡山に新幹線がやってくる、そして将来、瀬戸内海に橋が架かる、ついてはその拠点都市となる岡山の街という器を大きくしておかなければと、“土地区画整理事業”が始まりました。都市化されていくと土地としての価値が上がるということで、所有者の土地の最低三割、大きいところでは五割を超える土地を無償提供して、それでもって道路を造り、都市づくりを推進していくものでした。教団としても、霊地大元の参道も含めた神域の三割ほどを提供しなくてはならなくなりました。それでは霊地としての機能を果たせなくなるということで、大森当局は非常に苦悩されたわけです。近辺の農家の方々のご協力を得て農地を買い、それを代替地として提供するといった努力がなされました。その時に担当の教務部長として苦労されたのが福光丈夫さんです。この方は朝幸教会所(現岡山市)の出身で、戦後間もなく東京大教会所の所長も務めていました。福光さんは農地購入のためにコツコツ歩いて、誠実に農家の方にお願いして回られました。そういうさ中に大森総長が急逝され、急きょ、教務総長に押したてられたのが鳥取大教会所の清末間人所長でした。

 ─立教百五十年大祝祭は、旧大教殿の中で参拝するお道づれよりも、外で参拝する方の方が多かったと聞いていますが。

 教主 忘れもしません。北海道から参られた方々の到着が遅れたこともあって、大教殿の中に入れませんでした。五代様は、祭典が終わってから清末総長の先導のもとに私もその後ろについて、外の参拝者に挨拶(あいさつ)に回られました。特に北海道の皆さん方に「ようこそ、はるばる遠くから参ってくれたのに、“むしろ”の上で本当にすま ん!」と言って、五代様も“むしろ”に膝をついてお詫びされたのです。それを見ていた清末総長は、かねて旧の大教殿は昭和二十一年の南海大地震以来、左右七本の柱に支えられたような建物であるし、都市計画により目の前に大きな道路が出来る、周辺の田んぼが埋め尽くされて家が建ってくるということで、この際、霊地大元を拡張し大教殿を改築しようという運動を起こす腹をくくられるわけです。そういう意味においてこの昭和三十九年の立教百五十年大祝祭が、いわば神道山ご遷座へのスタートとなるのです。

 ─霊地を拡張するといっても、これから大きな道路や家が次々と建てられようとする区域では、とても難しい問題ではなかったかと拝察しますが。

 教主 大森当局のとき代替地の購入に本当に苦労していただけに、特に拡張となったら霊地大元の裏側(今村宮の方向)の農地を求めないといけないわけですから、担当の福光さんはとうてい無理だと分かっていたようです。彼はある時、次のようなことを私に言ってきました。福光さんの親友が西大寺(現岡山市)の農協の幹部で、東山(操山)に国有林がある、宗忠神社は大元にそのままにして、大教殿をはじめとする教団施設はそこに移すべきではないかということでした。国有地ならば安価で入手できるということもあったでしょうし、何より、明治十八年にご鎮座なった大元・宗忠神社の建立に際して、三代宗篤様の副管長まで務められた森下景端高弟を中心とする方々が、宗忠神社を東山に造ろうという説を唱えていたからだと思います。建築のご用材まで東山に運ばれていたということですが、最終的には三代様の御神裁で大元に決まるわけです。そういう歴史があるだけに、東山に教団の本部、大教殿をご遷座ご移転申し上げることならば、他の所と違って、教団の皆さん方にも理解してもらえるのではないか、ということでした。そこで福光さんの案内で農協の方にお目にかかり、ご案内いただいて土地を見に行きました。複雑な谷模様をもった丘陵地で、しかも頂上に立つと東が開けて御日拝に素晴らしい所だと思いました。実はそれとは全く別に、期せずしてその当時の青年教師たちから、霊地拡張はとうてい無理だという声が上がり始めていました。霊地大元の直前に瀬戸大橋に直結する三十六メートル幅の道路が出来るということは、その周辺に大小のビルが立ち並び、少々霊地を拡大したからといって、御日拝ではビルの角から昇るお日の出を迎えざるをえない。日拝をする宗教の教団本部の御日拝が、こういう場所でしかできないようでは教団の死活問題にかかわると、笠岡教会所(岡山県)の前の所長で後に教務部長を務める安本忠義さんや、邑久中教会所(岡山県)所長で後に教務総長を務める河野厳道さんといった当時の青年教師たちが憂いて、東山というわけではないですが、移転問題を皆で話し合っていたようです。過ぎてみれば、そのあたりもご神慮としかいえないものを感じます。

 ─なぜ、東山にご遷座されなかったのですか。

 教主 ひとことで言えばまさにご神慮です。東山の国有地は、大阪の方で国有地の払い下げで問題が起こった直後で、全く歯が立ちませんでした。そういう折から、御津郡一宮町尾上(現岡山市尾上)の佐野太郎さんというお道づれからの声が届きました。尾上地区には浅原大教会所の天心講もありましたし、教祖神ご在世当時に“尾上回り会”という天心講のあった所で、教祖神の御長兄の猪之介様のご墓所もありました。誰に言ったわけでもないのですが、皆さん敏感に感ずるのでしょう、黒住教の本部が他の場所に移転するという思いもかけない声があると…。そして佐野太郎さんの案内で、神道山に一番最初に安本さんや河野さんがやって来るわけです。そうなってくると教団の先輩方から、“とんでもないことを言う輩(やから)が出てきた”、“亡教の輩だ”と非常に厳しい声が上がりました。それも愛教心から為せることで、無理からぬことでした。私が最も忘れがたいのは、藤井教会所(岡山市)の矢部春治という長老所長が私の所へやって来て、目にいっぱい涙をためて、「御令嗣様、この大元を離れて教団本部はありえません。皆は大きな道路ができる、ビルが建つと言っておりますが、それくらいで有り難さが消えるような御日拝では、お道の御日拝とはいえません」と、切々と訴えられました。その信仰の深さには感激し、ただ頭を垂れるだけでした。今、振り返って見ますのに、こうした愛教心からの強い反対の声があったればこそ、今日の有り難い神道山時代があると思います。そのおかげで、より一層、慎重にまた迅速に過ちなきように事が進みました。しかも、そうした反対の声を上げて下さった方々が、後に神道山にご遷座なったときに一番喜んで下さったのです。これぞ、お道だと大感激したことでした。とにもかくにも、そうした折、清末当局が四年の任期が満了となって、島根県の原鹿大教会所所長であった勝部嗣夫教務総長が誕生するわけです。このことがある意味では決定的でした。勝部さん自身はそれまで、移転に賛成とか反対とか、霊地の問題に直接関わっていなかったのですが、新総長として「自分の責任は新しい霊地を求めることだ」と就任の挨拶でその決意を述べられたのです。

 ─勝部当局の誕生は昭和四十三年ですが、教主様には教団にとって未曾有(みぞう)の大問題をかかえた中で、「中・四国を対象に重症心身障害児の施設を造ろう」と“重障児運動”(昭和四十年)を展開されました。

 教主 私が今の歳(とし)なら、「止めておけ」と言うと思います。自分の所に火がついているのに人のことをやっている暇はないということです。しかし、この運動のおかげで教団そのものが事業を全うする、完遂するという意味の自信を得たし、この運動のおかげで教団のその時代における社会的信頼を得ました。大問題のさ中に“重障児運動”を与えられたということもご神慮であったとしか言いようがありません。また、この運動が終わった直後、郷土の岡山県出身の先輩財界人のご芳志によって、私たち夫婦は四カ月間も海外旅行(先月号「道ごころ」参照)をさせてもらったのですから、これまた教団の大問題のさ中に、その中からはずれたことになります。しかし、これも決められていたレールみたいなもので、今から思うとこれまたご神慮としか言いようがありません。それは何かというと、もしもあの四カ月の海外旅行がなかったならば、ひとつ今日の大教殿の形を取り上げてみましても、日本建築の原型である農家の形に、私自身が果たして賛同しただろうかと思います。海外旅行によって、本来の日本人の伝統的な生き方というものを再認識させられた、まさに俗にいう「かわいい子には旅をさせろ」を体験できたのでした。

 ─教主様には勝部当局ができるとともに、新霊地探しに汗を流されたとお聞きしていますが、“重障児運動”と“海外旅行”が神道山ご遷座の元になっているわけですね。

 教主 何もその時点で移転が神道山に決定されたわけではありませんが、神道山をはじめとして、世にいう自薦他薦のような形で岡山市周辺の丘陵地帯が七カ所ほど候補地に挙げられました。そして、最終的にこの神道山と高松地区の二つに絞られていきましたが、その頃にはご遷座のための審議会もできていて、御日拝については元より幅広くチェックが重ねられていました。それで最終的に残ったのが神道山でした。私が初めて神道山に上がったのは、勝部当局ができた昭和四十三年五月から半年が経ったその年の十一月二日だったと思います。当時の教議会の常任委員の皆さん方と一緒に来ましたが、その頃から神道山への移転が教団内で一気呵成(かせい)に進みました。また、私はその年昭和四十三年の冬至の朝に神道山の現在の日拝所(どころ)で御日拝をつとめました。その時に心底感嘆したのです。壮大なお日の出を迎え、しかもその線上には大元があり、拝む私の後ろの方向には“吉備の中山”の御陵がある、これはすごい所だと思いました。しかし、五代様は反対しておられるのではないか、と一部の方々は心配しておられたようです。正式には翌昭和四十四年に教議会で議決されるわけですが、間もなく各教会所の総代さんの代表四百人余が集う会が開かれました。実は私も知らなかったのですが、五代様は参加者一人ひとりに“為書き”の「神道山」という扁額(へんがく)を、各所長のも含めて八百数十枚染筆されていたのです。その場に集う者皆が大感激となりました。五代様はまさに“不言実行”の方でした。

 ─当時、神道山の十万坪の境内地は、御津郡一宮町尾上と、岡山市花尻と行政区域が異なっていて、購入は至難のわざであったと伺いますが。

 教主 地主の方々が百五十七名、その三分の二が尾上で、三分の一が岡山市花尻でした。その中で、旧一宮町町長の草野八治さん、町議会議長の熊代至誠さん、長老の藤井猪之吉さん、花尻地区では則武久雄さんが教団をお迎えするという姿勢を徹底して貫いて下さいました。それはいつに教祖神以来の本教に対する信頼からのものでした。しかもその上に、この方たちは「あの“重障児運動”をやった連中が今度は自分のことをするのだから、必ず立派な神殿ができる」と言って、地主の方を説得して下さいました。また地元の郷土史家の黒住秀雄さんが、「歴史的に言っても、はるかなる黒住の先祖は吉備津彦神社の社家なのだから、黒住教は大元から神道山に“遷(うつ)る”のではなく、“里帰り”されるのだ」とおっしゃって下さいました。こうした方々にもご苦労いただきましたが、勝部当局の藤原節男さん、安永喜由さんの部長方には本当にご苦労をかけましたし、本教の最高議決機関である教議会の議長また副議長として愛教の誠を尽くされた荻原央治さん、森下臣一さん、松本一さん、末広松尾さんといった人生のベテランで、お道信仰手厚かった方々も忘れられません。

 ─こうした皆様のご労苦、また当時のお道づれの皆様の愛教の誠で、ご造営工事は順調に進んでいったわけですね。

 教主 昭和四十五年八月一日、五代様斎主で今の車参道口で起工式、そしていよいよ工事が始まりました。その後、五代様は工事中に神道山に何度か足を運ばれましたし、今のふれあい広場(奥の広場)で、“草刈り奉仕”をつとめたお道づれとの昼食会ももたれました。その草刈り奉仕が、有り難かったのです。山の夏草なので刈ってもまたすぐ生えてくるから、いよいよ工事が始まるときに刈ればいいという声もあったのですが、教祖神がその名を付けられたという説さえある神道山、また“五社参り”でこの山の麓を歩いておられた神道山です、しかし、ここに「霊地」という二文字が付くためには、“奉仕の汗”を注いで初めてこの山が清められるという信念で皆さん奉仕されました。草を刈った次の日にすぐまた草が生えていてほしいと思えるくらい、皆さん方が奉仕の誠を捧げて下さり、それがまた皆さん方にとって“私の神道山”を生んでいったのです。その精神が十万坪の“一坪献納”にもなるし、大教殿の“瓦献納”にもなりました。少額の単位で子供でも誰でも参加できるという中で浄財が着々と供えられて、十万坪の土地は購入でき、千五百メートルの車参道もできるし、そして大教殿も建立できたわけです。文化十一年十一月十一日の教祖神の“天命直授(てんめいじきじゅ)”にちなんで、昭和四十七年十一月十一日に五代様斎主のもとに大教殿地鎮祭が行われました。まことに口惜しいかぎりですが、五代様は、その翌年、神道山ご遷座の前年の昭和四十八年五月十三日にご昇天になりました。翌十四日の早朝、私は神道山で御日拝をしていただきたく、御柩(みひつぎ)のまま神道山にお連れしました。折からお山に咲く一輪のヤマツツジを御柩に入れますと、その途端、一条の御光りが今の日拝所の山から差し込んできた時の感激は終生忘れえぬものとなっています。そして、新しい当局、武鑓和夫教務総長のもとに大教殿は竣工し、ご遷座のときを迎えたわけです。