寄稿二題

平成16年8月号掲載

 今春、岡山県・磯上教会所において創立百二十年記念祝祭が盛大に執り行われましたが、同教会所は祝祭にあわせて「創立百二十年記念誌」を発刊、教主様には「祝辞」を寄せられました。
 また、教主様には日本車椅子ハンドボール連盟の顧問をお務めになっていますが、厚生労働大臣杯の第一回日本車椅子ハンドボール競技記念大会が過日開催され、同大会のプログラムに「激励のことば」を寄せられました。 (編集部)


 祝辞

 ここに、皆様の磯上教会所が創立百二十年の記念祝祭を迎えられることはまことに有り難く、心からお慶びお祝い申し上げます。
 とりわけこの祝祭当日に、教祖神百五十年大祭が併(あわ)せて斎行されますことを尊く存じます。実は、平成十二年に教祖神百五十年大祭を神道山・大教殿において執り行い、翌十三年から四年がかりで長男の副教主と分担するような形で、全国の教会所におけるこのみまつりをつとめさせていただいてきまして、本年度はその最終年になります。各教会所におけるこのみまつりには、歴代の所長はもとより先輩教徒信徒の御霊(みたま)様を改めてお祀(まつ)りして敬仰の誠を捧げていますので、磯上教会所創立以来の諸先輩、教信徒の御霊様に対する感謝の祈りが、記念祝祭と同時に捧げられることは格別意義深いことだと思います。
 磯上教会所創立にかかわる先輩方の中で、まず大きく浮かび上がって来るのは教祖神直門の武内来蔵先生です。武内先生は、佐山(現備前市)から霊地大元までの遠い道のりを、教祖神にお目にかかりたい、直々のお説教を拝聴したいの一心で、毎月、何度もお参りになっていました。
 ある日、武内先生がお参りされたそのときは参拝者が他になく、教祖神は「武内さん、あなた説教をおつとめなさい」と言われ、武内先生は教祖神御一人を前に、みずからの有り難い御道信仰を吐露されました。続いて高座に上がられた教祖神は、そのとき二時間にも及ぶ大説教をしかも大きなお声でおつとめになったのでした。
 高座からおりられた教祖神に、感極まって武内先生が「私一人のためにこのように有り難いお説教を賜り……」と言われたとき、「武内さん、あなたお一人ではありません。天照大御神の御道を説く説教には八百萬の神々もお集いになりお聞きになるのです」と、凜(りん)としたお声でお話しになったということです。この尊い御逸話(ごいつわ)の物語るところはまことに深いものがありますが、これを生み今日に伝えているのは武内先生の熱い御道信仰であり、教祖神を敬い崇(あが)める先生のお心の深さだと拝察することです。

 ここで私自身の個人的なことを申し上げるのをお許しいただきたいと思いますが、磯上教会所には今まで数多くの近しい方がいらっしゃいますが、中でも昭和四十年代半(なか)ば頃の所長青山かつみ先生のひとことは、今に忘れられない響きをもって私の中に残っています。その当時は「大教殿改築並びに霊地大元拡張運動」といういわゆる「霊地運動」が、発展的に神道山に大教殿をご遷座という「新霊地運動」に大きく転回した頃でした。それに伴って、それまでの「一口一日十円献金」に加えて「一坪献納」という名のもとに、神道山十万坪の土地購入のための献納運動が始まっていました。この推進本部の中枢にいた私の耳には、続く献納運動に対する批判の声が次々と入ってきていました。そういうとき、青山先生は磯上教会所のお道づれからの浄財を持って大元の大教殿にお参りになり、次のように話されたのです。
 「御令嗣さん。あなたのお耳にも入っていると思いますが、続く献金のことで、またか、また献金かという声があちこちにあります。しかし、挫(くじ)けてはいけませんぞ。私らの教団のことは私らでやらねば誰もやってくれんのですから。それどころか、またか、またかがええん(いいの)です。“またか”という字を書いてごらんなさい。片仮名のマに、田んぼの田、そして片仮名のカと書けば『勇』という字になりましょうが!そうなんじゃ、勇んで勇気をもってやらにゃならんのです。たのみますぞ!」と。
 このような先輩方がいらっしゃって初めて今日の教団があるということを祝祭当日に改めて実感させてもらい、斎主として感謝の祈りを捧げることのできる幸せを今から楽しみにしていることです。


 激励のことば

 ここに第一回日本車椅子ハンドボール競技記念大会が、社会福祉に役立つ人材育成につとめる近畿福祉大学の主催で開催されますことはまことに意義深く、心よりお慶び申し上げます。とともに、これまで尽力され、またご協力を惜しまなかった各位に深甚の敬意を表します。
 私事にわたって恐縮ですが、私は学生時代にハンドボールに明け暮れた者の上に、昭和三十九年の東京オリンピックに続いて開かれたパラリンピックにおける車椅子バスケットボールの試合を見て感激した者ゆえ、この度の大会開催には格別の思いがあります。
 パラリンピックでは、車椅子の選手方の鍛えられた心身、車椅子の特色を存分に生かした独特のすばやい動きに圧倒されましたが、身体不自由な方にしてこれだけのことができるのだから、“五体満足の者、このままではならじ!”とのある種の危機感に襲われたことでした。この試合観戦がひとつの動機となって、若い仲間達と翌昭和四十年、「中四国を対象に重症心身障害児の施設を造ろう」の社会運動が始まり、今日の 旭川荘(岡山市)にある旭川児童院誕生のきっかけとなったのですから、車椅子選手のバスケットボール試合は私にとって忘れ難いものになっています。
 昔話を申し上げましたが、この度の大会に参加される選手方のひたむきな姿勢が新たな動きを生む元になることも期待し、選手の皆様のご健闘を心からお祈りいたします。