《「川崎祐宣記念講堂」完成記念対談》 人のために生きる尊さ

平成16年7月号掲載

五代様のご親友で川崎学園の創設者、岡山県名誉県民であった故川崎祐宣(すけのぶ)氏の業績を称える記念講堂がこのほど完成し、去る五月十五日に披露行事が行われ、教主様と江草安彦旭川荘理事長が「川崎祐宣を偲(しの)ぶ」と題して対談された。その要旨を山陽新聞が五月二十七日付同紙に紹介したので、山陽新聞社のご好意により転載させていただく。(編集部)

 岡山県名誉県民で医療、福祉の発展に貢献した学校法人川崎学園の初代理事長・川崎祐宣氏を顕彰する「川崎祐宣記念講堂」の完成を祝う記念対談が十五日、倉敷市松島、同講堂で開かれた。生前、親交が深かった旭川荘理事長の江草安彦氏と黒住教教主の黒住宗晴氏が、山陽新聞社論説委員会の高松屋暢克主幹を司会に、医療福祉の充実、日中友好活動などに高い志を持って取り組んだ川崎氏の業績を振り返った。


 ─今年は川崎祐宣氏の生誕百年の節目。大胆な実行力と卓越した統率力を発揮し、手がけてきた事業の根底には、天を敬い人を愛す「敬天愛人」の精神が脈々と流れている。医療、福祉、教育に一生をささげ、地域社会に貢献した川崎氏はどんな人物だったのか。出会ったころのエピソードと印象に残っていることは。

 江草 約五十年前、私が岡山大医学部小児科学教室にいた当時、自宅にうかがった。自分の生涯を決めるだろうと思わずにはいられないほど魅力的な人だった。「考えていることを話してみろ」と言われたので、生意気にも「自然科学で治療法が解明されていない難病患者に『処置なしです』と言うことは、現代医学の敗北を意味するのではないか、ということを考えています」と申し上げた。

 黒住 私が小学生のころに、父と酒を酌(く)み交わす姿を何度か見た。父は「いろんな人に会うが、あの人ほど立派な人はない」と語っていた。幼少時の厳しいしつけ、医師だった伯父との出会い、学生時代の寮生活での友人との交流などが縦軸、横軸となって青春時代に基礎がつくられたのだろう。急患があれば夜中や食事中であっても駆け付け、患者が回復したときの喜びや亡くなられたときの悲しみを、肉親のことのように受け止めていた。

 江草 印象に残っていることは、川崎医療福祉大の開校準備を進めていたころ、学長就任を要請された時のこと。旭川荘の仕事もあり無理だと思ったが、先生は「医科大に付属病院があるように、医療福祉大には旭川荘がなくてはならない」と強調され、「天国に行くのも地獄に行くのも一緒。良いことは君の手柄だ。悪いことは自分が責任を持つ」と言われた。このひと言で決心がついた。心底人を信用する人だった。

 黒住 一九六五年、中四国で重症心身障害児施設の建設運動を展開していたころが思い出される。先生は当初、旭川荘内に開設することにあまり積極的ではなかったようだ。今まで思い描いていた先生のイメージと違ったので、多少ショックを受けた。しかし、後によくよく考えてみると、母体となる旭川荘自体がまだ成熟していない時期だったからだろう。結果的には「旭川児童院」として設立されたが、先生から言われた「重障児の施設は旭川荘で引き受けるよ」との言葉がとても印象に残っている。西郷隆盛のような人物の大きさを感じた。
 ─数々の業績を残された背景には、弱者に対する深い思いがあり、行政や財界、福祉関係者ら多くの人が協力を申し出て、数々の事業もやり遂げられた。多くの人を引きつけた魅力は。

 黒住 高い志と誇りだろう。年中無休・昼夜診療の方針で、頼ってくる人を放っておけない。病院で手に負えない人を何とかしなければ、と旭川荘を創設し、「医者とはこうあるべき」との思いで川崎医科大を開設する。川崎病院が扇の要になって、旭川荘や医科大をつくり、やがて医療と福祉をドッキングさせた医療福祉大につながった。そうした行動が患者だけでなく、あらゆる人からの信頼を厚くした。

 江草 その時の医療技術で治療できなくても、「だめです」と言って終わりにすることはできない人だった。旭川荘の設立はそうした「やむにやまれぬ気持ち」からだった。当時、別々のものとして扱われていた医療サービスと生活支援サービスを一体化し、実践しようとしたのも先生の考え。医療福祉は限りなく進歩するもので、組織的に実行すべきだと言い始めたのも先生だ。

 黒住 それに、他のために尽くすことが人間としての責任であり使命、さらには喜びだ、ということを貫かれた。大学の建学理念に「人間をつくる」が第一に挙がっているのもそのためだろう。また人間として基本的なことだが、友人や師への恩も忘れない人だった。手術中は奥さまが神棚に手を合わせて無事を祈っていたという話を聞いたときには、宗派を超えた非常に高く深い宗教心をみた気がした。

 江草 アジア人としての先生も忘れてはいけない。中国とは約五十年前、視察旅行で毛沢東、周恩来らと会ったのをきっかけに交流が始まった。強大な権力を持ち、中国の医師会にも当たる中華医学会の名誉会員の称号も、日本人で初めて受けられた。旭川荘では約二十年前から研修生などを受け入れている。
 ─多くの人材を輩出し、医療、福祉分野で地域に尽くしてきた川崎学園の課題と期待は。

 江草 医者にも上医、中医、下医がある。下医は普通の医者、中医は技術を持つ名のある医者、上医はそれに加え、天下、国家の立場から病気を考える人だ。先生は間違いなく上医の医者だ。私学は精神性がはっきりしないと独自性はありえない。それには創立者の人生を振り返ることが大切だ。先生の人生と業績を明確にしながら、医療福祉とは何かを多角的に検証し、今後の学生教育に生かしていかなければならない。

 黒住 先生の一生を振り返ってみると、人のために生きる大切さを身をもって示された人生だった。川崎学園にはその精神をこれからも貫いてもらいたい。医療技術をマスターするだけでなく、人間をつくる「人間教育」の場であることを期待している。