「西薇山(にしびざん)先生百年祭」にまつわることども
平成16年6月号掲載
岡山県の備前市閑谷(しずたに)にその名も閑谷黌(こう)(今日、閑谷学校と呼ばれる)という、江戸時代に庶民にも開放されていた藩学校(岡山・池田藩が創設)があります。明治の時代になってさびれていた閑谷黌を蘇(よみがえ)らせ、後に名黌長として「備前聖人」と仰がれた人に、本教教徒西毅一(きいち)(号薇山)という方がありました。
この方の百年祭が去る三月二十八日、閑谷のその墓前で執り行われ、今日の西家当主厚志、和彦氏兄弟ら家族親族十数名が前日から神道山に集い参り、当日の日拝式に参拝、午後一時からの祭典に参列されました。私は斎主としておつとめし、薇山先生の偉大さに驚嘆(きょうたん)するとともに、人と人とのご縁の妙を改めてかみしめました。
私事にわたって恐縮ですが、昭和三十一年、京大に入学した私は迷うことなく体育会ハンドボール部に入学しました。それは、これから始まる四年間の学生生活の中心に運動部の生活を置きたかったことと、ハンドボールというスポーツそのものが好きだった上に、京大は慶応義塾大学とのハンドボール定期戦を持っていたからでした。当時、国立大学と私立大学との定期戦はあまり例を見ませんでした。
一年生のその年、慶応との定期戦に敗(やぶ)れそれが七連敗になった後の交流会で、慶応の監督は「定期戦は互いに勝ったり負けたりしてこそ意味があるのに、勝つのはいつも慶応義塾。京大には勝とうとする意欲さえ感じられない。これでは定期戦を持つ意味がない…」と厳(きび)しい挨拶(あいさつ)をしました。十八歳の世間知らずの私は、帰途に就(つ)くこの監督を追いかけて生意気にも“もう三年間、待ってほしい”とお願いしました。昭和三十四年、大学四年の夏、辛(かろ)うじて慶応に勝って定期戦十連敗を免(まぬが)れた私たちでしたが、残念ながらその監督はその場には不在でした。卒業後、京大チームの監督に就任した私は、二年目の定期戦で久方ぶりにこの方にお会いしました。
「黒住君、一度尋ねたかったのだが、君の故郷(くに)は?」「はい、岡山です」「すると、黒住教と何か関係あるの?」「はい、父が教主をしております」「えーっ。ならば私の祖父西薇山と格別のご縁があった管長様は、あなたのおじい様だ…」
この方は、西敏郎氏という実に薇山先生の直孫(じきそん)だったのです。
その日、東京の親戚に泊まった私は、ちょうど大阪から上京して来ていた寺井徳子伯母(五代様姉上)にこのことを話しました。「まあ…。薇山先生のお孫さんと一緒だったの…。三代様がお亡くなりになったとき十四歳の四代様を、三代様ご夫人のあなたのひいおばあ様は、教団内にこの人を措(お)いて他にないと、西薇山先生にお願いして書生(しょせい)としておじい様を五年間お預(あず)けになったのよ」と、概略、以上のようなことを話してくれました。
以来、西敏郎氏にはハンドボールのことはもとより人生の先輩として、なにくれとなくお世話になってきました。特に、神道山ご造営のさ中、今日の車参道を造るに際してもその場所の特定に、土地開発の仕事にも通じていた氏には格別のご指導、助言をいただいたことでした。長男の厚志氏も慶応のハンドボール部で鳴らし、次男の和彦氏はお勤めの日本航空のロンドン支店在任中、折からロンドン大学に留学した長男、現副教主をこれまたなにくれとお世話下さいました。
敏郎氏の御父君の時代に岡山との縁が切れてしまっていた西家が、ハンドボールの取り持つ縁で本教とはもとより岡山との関係が復活して今日に至っているわけです。
西毅一薇山先生は、天保十四年(一八四三)岡山藩士の家に生まれ、明治維新によってまさに一新した岡山県の草創期を担った人で、「鋭意果断(かだん)、豪胆の人であり、己が正しいと信ずることを断固としてやり遂(と)げる。その結果、多くの挫折(ざせつ)も経験した」と、その人物紹介にあります。閑谷黌の黌長になるまでにも、私塾を開いて教育につとめ、また文学修業に励み、さらには招かれて明治新政府の要職に就いて国会開設に尽力し、開設なるや、わが国初の衆議院議員選挙に出て国会議員にもなるなど、大きく変貌(へんぼう)する明治の時代そのもののごとく様々な場で活躍しておられました。しかし、教育こそ国家の命運を決するものとの信念から、その人生の後半は閑谷黌にあって率先垂範しての教育に専心されました。しかも先生の「“宿志(しゅくし)”ともいうべき目的は、中国と良好な関係を保ち、もって欧米列強の脅威(きょうい)に対抗しようとするもの」(同じく先生紹介の一文より)であったようです。
事実、長女の艶子女史とそのご主人の白岩龍平氏を、先生は中国の上海(シャンハイ)に派遣して中国の要人との交渉に当たらせていました。
ところで、岡山県北の加茂町生まれの牧巻次郎氏は、閑谷黌で薇山先生の門下生として学び、卒(お)えて当時の大阪朝日新聞社に入社、上海特派員として赴任(ふにん)し白岩夫妻の住まう家の二階に下宿していたほどでした。
─ハンドボールの西敏郎氏からよく聞かされたことでしたが、「白岩の叔母が口ぐせのように言っていました。“私たちは子供の頃、将来の黒住の管長様が焚(た)いて下さるお風呂に入り、遊んでもらって大きくなった。……おじい様の褌(ふんどし)の洗濯までなさっていた”」と。─
牧氏が、ロシアと清(しん)国(中国)との密約を発(あば)くなど、新聞記者として命を懸(か)けた仕事に没頭したのも、薇山先生の“信念の教育”のしからしむるところと言われています。実はこの牧氏が、牧放浪(ほうろう)の名のもとに上梓(じょうし)したのが名著「(注)黒住宗忠」で、それは明治四十年、日露戦争後帰国して大阪朝日新聞本社の記者としてあった頃に発刊されたものでした。
なお、この牧氏が、郷里に近い津山市にいた若き美土路昌一(みどろますいち)氏を大阪に連れて来て入社させ、美土路氏は後に朝日新聞社社長、さらに初代全日空(ANA)社長になられたことにも、不思議なご縁を思うことです。
(注) 昭和六十一年、日新社で復刻。頒価一、〇〇〇円 送料一六〇円
