霊地大元の大改修に思う

平成16年4月号掲載

 立教百九十年・神道山ご遷座三十年の今年、さらに明年平成十七年に迎える大元・宗忠神社ご鎮座百二十年の記念事業として、本教のまさに大元、大いなる元(はじめ)たる霊地大元の教祖記念館と旧の大教殿である現黒住教武道館の大改修工事がなされることを、心から有り難く尊く思います。
 申し上げるまでもなく、教祖記念館は教祖神最晩年の嘉永元年(一八四八)に祈りとお取り次ぎの場、そして教祖神のご住居として建築されたもので、いわば今日の大教殿の第一号といえる建物です。この御神前で教祖神が直々のお祈りをなさり、御道を説きご神徳をお取り次ぎされたのであり、ご昇天になったのもこの建物の御居間でした。ご昇天後は、集(つど)った赤木忠春高弟をはじめ七人の高弟が全国布教に決死の祈りを捧げて旅立った御神前です。
 二代宗信様の祈りを元として出立(しゅったつ)した「伊勢千人参り」もここからであり、時の王城の地である京都の吉田山神楽岡にその名も宗忠神社をご鎮座、孝明天皇の勅願所(ちょくがんしょ)にまで支え上げたのも今日の教祖記念館が元でした。
 明治の御代(みよ)になって間もなく、三代様が熱い思いを胸に上京して明治新政府と前後六年間にわたってねばり強い交渉を重ねて、教団の公認、さらにいわゆる国家神道から“別派独立”を果たされた源もこの教祖記念館の御神前でした。そして、京都神楽岡・宗忠神社に続いて大元・宗忠神社を生んだのもこの建物でした。
 三代宗篤管長(現教主)ご昇天後、幼い四代宗子(やす)様が成人するまでの空白を埋めたのは三代様ご令弟の宗敬(よし)様でした。
 成人された宗子様は四代教主(管長)として、若い身ながら早速先頭に立たれることになったのが本部教会所たる大教殿の建築でした。この地は、宗忠神社に隣接するところで、大元周辺に住まう農家の方々の農地でした。この方たちの深い信仰と理解があって初めて入手できた土地でしたが、さらに自らの農地を犠牲にしてその田の土を提供して下さってできた境内地でした。
 明治十八年(一八八五)に教団の総力をあげて建築ご鎮座なった宗忠神社、それと同時進行でとり進められていた御神幸(ごしんこう)の御道具づくり、こうした大事業のあとを受けた大教殿建築でしたから、この建物は当時の先輩方の理想とするものには程遠かったようです。明治三十二年三月、その竣工祭において四代様は皆様と喜びをわかちあいながらも、「本格的な大教殿は他日を期す」とのひとことでもってその説教を終えられています。とは言え、この木造の建物は、栂(ツガ)(俗称トガ)という強じんな建築材で造られ、本瓦の大屋根、教場は二百七畳敷で、今日はもとより当時でも岡山市近郊では珍しい木造の大建築物でした。
 昭和七年、学校を終えて大元にお帰りになった五代様を迎えた教団本部は、疲弊(ひへい)し切った状態でした。様々な要因が重なっての財政危機の責任をとって、四代様は引退して大元を離れられ、現在の教務総長格の人が管長職を兼務し、日拝も行われない大元になっていました。
 五代様は夏は午前二時、冬は三時に起床し、教祖神はもとより黒住家の歴代父祖が神仕えしてきた今村宮に参拝するところから一日の祈りを始められていました。今村宮から帰られると、宗忠神社、大教殿の回廊の拭ふき掃除、そしてそれぞれの御神前に献饌(けんせん)、それの終わる頃に夜が明け始めたようです。御日拝の準備をされて御日拝、その後、大教殿、宗忠神社、教祖記念館御神前のご拝となりました。(これらのことは五代様叔母黒住隆刀自、義理の叔母黒住栄刀自に、私自身が何度も聞かされた話です)
 こうしたたった一人の朝の祈りは、数年間続いたようです。正式に管長に就任されたのは昭和十一年九月十二日で、ご昇天は昭和四十八年五月十三日、神道山への大教殿ご遷座は翌四十九年十月二十七日ですから、五代様は教主としてその全生涯はもとより、四十年余りを大元の大教殿で祈り、お道を説き、お取り次ぎに精励されたのです。
 教祖神はその最晩年の二年間を、二代様、三代様はそのすべての在任期間を、そして四代様は管長就任後二年間を、本教祈りの中心者としてつとめられたのが教祖記念館御神前でした。
 後に続く私どもの世代から見上げますと、特に旧の大教殿には、五代様そのものとなって迫って来るものがあります。それは同時に、戦前、戦中、戦後の苦しい時代をひたすら祈り、おかげをいただいて来られた私たちの先輩お道づれの魂の結晶でもあります。
 特に、子供の頃のことながら私の胸に焼き付いているのは、昭和二十年六月二十九日未明の岡山大空襲のときのことです。
 五代様はお一人で教祖記念館御神殿から御神体を庭に“御動座”され、夜が明けて事無きを得て“御還御(ごかんぎょ)”のときは三人がかりであったこと。御動座につとめられたその頃、大教殿ではときの瀬尾礼蔵司教が、宗忠神社では宮口清吉勤番が被弾するならば共に焼け失せるのを覚悟でお祓いを上げ続けられていたこと。この二つのそれぞれの命懸けのご行動は、幼い身であった私にさえ大きな感動でそれは今に残っています。
 終戦翌年の昭和二十一年十二月二十一日、南海大地震が発生し岡山地方も甚大な損害を受けましたが、微動だにしなかった宗忠神社に比べて、教祖記念館と大教殿では相当な被害があり、修理されるとともに大教殿には左側(さそく)四本右側(うそく)三本の支え柱がとり付けられて今日に至っています。
 毎月十六日のお日待祭のときの宗忠神社、教祖記念館参拝はもとより、週に何度かは旧の大教殿の武道館に、空手道ならぬ“空手形”と称して空手道の真似事を始めてそれも三十年近くになりました。
 地震対策のため、そして永久に教祖記念館、旧大教殿を残し本教歴史の“証人”としても後世に伝えていくために、両建築物の改修がなされることは、私には感激の極みであります。
 なお、宗忠神社のご本殿はもとより拝殿などは、全く改修の必要のない堅牢(けんろう)な御建物であることを専門家も認めてくれたことを付記しておきます。