教主三十年の歩み[2]

平成15年11月号掲載

 前号の本稿では、教主様にご就任三十年にあたり「教内活動」の三十年間をふり返っていただきましたが、今号は日本国内における「対社会活動」についてお伺いしました。有り難い神道山時代を歩む教団が、社会のお役に立つべく、教主様を先頭に様々な奉仕活動を積み重ねてきていますが、その心を改めて学ばせていただきましょう。(編集部)


 ―平成十三年正月に発布された「ご告諭」において、よりよく生きるための“五つの誠”をお示し下さっていますが、その三条目に「奉仕の誠」が掲げられています。その意義についてお聞かせ下さい。

 教主 なにも黒住教に限らず、宗教教団というのは、祈りを中心にしたタテ軸と奉仕というヨコ軸のバランスが大切だと思います。というのが、決して宗教教団が一般社会から浮いているものではなく、人間そのものに深くかかわるところに宗教の役割・責任がある以上、格好良く言えば、“象牙(ぞうげ)の塔”に籠(こ)もる(現実社会から懸け離れる)ようなことは、宗教教団としては許されないと思っているからです。
 そして同時に、教祖神の御教えの特に大切なところで“教えの五事”に示される、「誠を取り外すな」「我を離れよ」との二箇条の通り、「離我一誠」=我を離れて誠を尽くすことが大切なのです。
 仏教にあっては“我執を断つ”ということでしょうし、キリスト教の“自己犠牲”ということにもつながるでしょう。信者の方、個人にそれを求めながら宗教教団それ自体が果たして、“我を離れる”ことができているでしょうか?“宗我”を断つ努力をしているでしょうか?宗教教団としての“自己犠牲”をどのように貫いていくか……これが宗教教団に常に突きつけられている課題だと思うのです。
 教団が社会から隔絶した存在になることなく、人に、社会にお役に立つ教団であるということは、教団が健康であるための、社会に健全に生きていくための大切な基本姿勢だと思っています。

 ―そういった意味でも、立教百七十年・神道山ご遷座十年の記念大祝祭(昭和五十九年)において、「ご告諭」をもって平成五年の第六十一回「伊勢神宮式年遷宮」にご奉賛の誠をつとめることをお示し下さったのでしょうか。

 教主 今日、法律的には伊勢神宮も一つの宗教法人です。しかし、伊勢神宮という本教団を超えたご存在、しかもわれわれにとってはより高きご存在のために誠を尽くすことができるということは、教団にとって本当に有り難いことでした。言うまでもなく教祖神のご生涯六度にわたるご参宮、二代様のときの伊勢千人参り、そして明治の御代(みよ)の五回にわたった一萬人参り、一万人とはいえ、多いときは二万六千人のお道づれが参宮されています。
 それ以後、戦中も戦後も変わりなく続けられてきた参宮は、昭和・平成の三度にわたる萬人参りとして蘇(よみがえ)りました。先祖先輩からの伝統にのっとって前回の第六十一回の式年遷宮に、“ありがとうございます運動”を通じて、十年がかりで、本教とすると多額の浄財を献納させていただくことができ、教団の歴史に深く刻まれる尊い奉仕活動となりました。そういうときに、教主という立場に居らせてもらえた喜び感激をかみしめたことでした。
 それにしましても、式年遷宮ご奉賛のさ中に行われた“伊勢特別団参”は忘れられません。千人余のお道づれの皆様と共に“お木曳行事”(昭和六十一年と六十二年)の「一日神領民」として、あるいは青年教師や青年連盟の若い諸君による“川曳”。「エンヤー、エンヤー」と、老若男女が声を合わせて御神木を積んだお木曳車を一台まるまる曳かせていただき、本当に光栄でした。また、新御正宮の御敷地にお白石を運ぶ“お白石持行事”(平成五年)などの諸々の伝統行事にも参加させてもらえたことは、有り難くも楽しい思い出です。

 ―国内における対社会活動といえば、平成七年に発生した阪神・淡路大震災における“炊き出し奉仕「わたがし作戦五十日」”が記憶に新しいところですが、その“奉仕の心”についてお教え下さい。

 教主 私自身の奉仕活動の原点は、やはりかつての青年連盟の“重障児運動”です。「中・四国を対象に重症心身障害児の施設を造ろう」という社会運動です。その当時、教団本部の霊地大元が岡山市の土地区画整理事業で大きく変貌(へんぼう)するという存亡のときに、なぜそのような他のことをやっている暇があるのかと、数多くの方に言われました。しかし、重い障害を持つ人たちが全くないがしろにされている現状を目の当たりにして、知らずにいるならともかく、それを知っていながら、わが教団のことだけを考えていて、果たして黒住教たりうるかという思いでの決断だったわけです。
 若い人たちが立ち上がって、大変多くの県民国民のご協力、ご支援をいただいて「旭川児童院」は誕生したのです。そういう社会活動が、教団に対する新たな信頼となって返ってきたのでした。もちろん、そのためにつとめたのではないのですが、まさに“我を離れて誠を尽くした”ことがおかげをいただく元となって、神道山へのご遷座につながったわけです。逆に言うと、この重障児運動がなかったら、神道山は成っていなかったかも分かりません。その渦中にいた者として実感していることです。
 この重障児運動に勝るとも劣らぬ社会活動が、大震災のときの「わたがし作戦五十日」と銘打った奉仕活動です。なぜ「わたがし作戦」かというと、大元・宗忠神社の御祭りの思い出から命名しました。今でもそうでしょうが、地元の人の楽しみは“お宮参り”もさることながら“お店参り”でして、夜店で売られている“わたがし”は、割りばしの回りに真綿のようにフワッと温かく膨らんだ、口の中に入れるととろけて甘い懐かしい味です。食べるものがなくて、しかも寒くて震えている、そういう多くの被災者の方々に目の前で温かいものをつくって差し上げることこそ、心身ともに立ち上がっていただく力になるのではないかという思いからでした。もとより大それたことができるとは思ってはいなかったわけで、「われわれが割りばし役になりますから、どうぞ県民市民の皆様方、お力添えを!」と“この指とまれ”の感じで、「わたがし作戦五十日」と銘打って開始しました。ちょっと新聞やテレビで呼びかけただけでしたが、やはり「困ったときはお互いさま」、「明日はわが身」という昔の言葉通りでした。交通整理が必要なほど大勢の方が参加して下さり、マイクロバスからガソリン代そして運転手さんも、さらにプロパンガス、食材も、なにもかも皆無償奉仕で、正味五十一日間、ひとつの避難所となっていた神戸市立兵庫中学校を中心に、毎日五千食の炊き出し奉仕が展開できました。この奉仕団の「岡山市民ボランティアグループ」との名前の通り、本教が“黒子役”で割りばしの役割を果たすことができたことは、最も本教らしい姿勢、いや宗教教団として最もふさわしい姿勢を貫くことができたと誇りに思っています。

 ―奉仕の実践活動といえば、教祖神百五十年大祭(平成十二年)を神機として、平成十一年から“全国教会所一斉社会奉仕「まることボランティアの日」”が始められ、五年目を迎えましたが。

 教主 これにしても、やはり重障児運動が元となっています。旭川児童院が誕生したのは昭和四十二年の春でした。重障児は、何しろ体は成人して大人になっておりましても、おしっこさえも自分でできない人たちですから、膨大な数のおしめの整理、おしめたたみが必要となります。これに当時の婦人会が立ち上がって下さって、今に奉仕が続いているわけですが、これまた黒住教婦人会が割りばしになって、今では数えきれないほど数多くの宗教教団や団体が奉仕の誠を尽くされています。旭川児童院へのボランティアは毎年一万人になんなんとしていて、全国的にも稀有(けう)な奉仕活動が続けられています。
 その旭川荘の奉仕を軸として、割りばしとして、それにフワッと膨らむような形で「まることボランティア」いわゆる「まるボラン(略称)」という名のもとに、各地各所の教会所が主体となって公共施設・社会福祉施設などへの奉仕の汗を流して下さっています。この時にかいた汗はかいた人にしか分からない、さわやかさがあるわけでして、有り難い御祭りにお参りして、その帰りに味わうような充実感を皆味わっておられるようです。奉仕した者、誠を尽くした者がいただけるおかげでしょう。

 ―教主様には要請を受けて、社会福祉法人「旭川荘」(理事)や川崎医科大学の学校法人「川崎学園」(監事)をはじめ文化関係では林原フォーラム(顧問委員)、林原美術館(副理事長)、あるいは大原美術館の大原さんの「くらしきコンサート」の「郷土の中高校生にクラシック音楽をプレゼントする会」(会長)や、あるいは大本育英会(理事長)等次々と各所の公職をお務めになっていますが、道づれの一人として誇りに思っています。

 教主 これは私個人というよりも、黒住教という宗教教団がそれだけの社会的信頼を得ている証(あかし)なのです。本当に有り難いことと思いますし、それだけ責任も重く身の引き締まる思いが常にあります。中でも知的障害児のための岡山県立岡山西養護学校、この県立学校の教育後援会会長を一宗教教団の教主が二十数年も務めているということは、これでいいのだろうかという思いさえあることです。同じような意味で、山陽新聞社の、天下の公器たる新聞社の社会事業団のお役(理事)を、また「報道と紙面を考える委員会」のメンバーにならせていただいていることなど、いつに本教に対する社会的信頼の高さの証だと、有り難くも非常に厳しいものを感じております。またそうしたお役と同時に、黒住教という宗教教団は日本の伝統文化の「継承」を担っているので、教団の枠を超えて若い人たちに伝統的な精神を伝えてほしいという期待があるのではないかと思います。ダジャレになりますけれども、一方で“けいしょう”は“けいしょう”でも、警告するという「警鐘」、今日の世の足らざることに警鐘を鳴らしながら、わが先人からの“宝”をないがしろにしないようにつとめてまいりたいと思っています。

 ―教主様には、そのほかにも児童養護施設「南野育成園」(後援会会長)、不登校の子供たちのための学校法人「吉備高原のびのび小学校・希望中学校」(教育後援会会長代行)と、青少年の健全育成につとめられているお姿に頭が下がります。

 教主 青少年の健全育成こそ、国の基(もとい)であると思います。そこで、霊地大元の旧大教殿を武道館に改造してもらいまして、柔道剣道あるいは空手道の道場として青少年の健全育成に役立てているわけです。また、旧本庁(現・仲陽館)の一室に世界的なネットワークの一つである「いのちの電話」岡山支部の事務所をお迎えしています。神道山においては、教祖神の御真筆をはじめとする「道の宝」を宝物館として拝観できると同時に、代々わが家に伝わる備前焼をはじめとする陶磁器、さらに五代様、そして私個人に、親交のある陶芸家たちが寄贈して下さった陶磁器を、美術館といえば大げさですが、展示する場をつくらせていただいていますが、日本工芸会中国支部のお役(顧問)をいただく者としてこれも社会的なひとつのつとめだと考えています。また、そういう作家の方々の誠意に応える道だとも思っているわけです。

 ―本教には、教祖神以来の社会奉仕の精神が脈づいていますが、殊に神道山時代の奉仕活動は大きな社会活動であり、まさに私たちの生きる証といえるのではないでしょうか。

 教主 具体的には重障児運動がきっかけでした。ただ、そうした精神も戦後間もないころ、五代様が中心に造られた親のない子供のための児童養護施設「天心寮」(岡山県赤坂町)、さらには教祖神が、貧しさが最大の原因でしょうが親に捨てられたような子供を次々とお養いになったご逸事、そうしたところに根っこがあるわけです。どちらにしても重障児運動がきっかけとなって旭川荘、とりわけ重障児施設の旭川児童院へのおしめたたみを中心とした奉仕、これはいわゆる本部活動と言ってもいいわけですが、それが本部にとどまらず「まるボラン」という名のもとに、各教会所単位で教会所の境内を飛び出して、社会に共に奉仕の誠を尽くす、そういう姿勢が出てきたことを、心から有り難く思っています。
 冒頭に申しましたように、私たち今日を生きる黒住教道づれは祈りというタテ軸と、奉仕というヨコ軸が両々相まっていくこの姿勢をますます大切にしていかなくてはならないと思います。