教主三十年の歩み[1]
平成15年10月号掲載
昭和四十八年十月十四日の第六代教主ご就任式より早三十年。教主様には、有り難い神道山時代を歩む今日の教団の先頭にお立ち下さり、御日拝に象徴される祈りを元に、教内における活動はもとより対社会活動にも奉仕の誠を捧げ尽くしてこられました。
教主様ご就任三十年にあたり、その三十年間をふり返っていただきました。今号から「教内活動」、「対社会活動(国内)」、そして「国際活動」と三号に分けて、教主様にインタビューしたものを掲載させていただきます。 (編集部)
―この三十年の間には、教団活動の上で“ご決断”が次々とあったことと思いますが、殊に霊地大元から神道山への大教殿ご遷座(昭和四十九年十月二十七日)のご決断には大変なものがあったと拝察いたします。
教主 教主就任三十年、誰しもその人生をふり返ってみればあっという間の歳月というのが偽らざるところでしょうが、やはり三十年を迎えて、忘れ難いのは二十九年前の大教殿の大元からのご遷座、そしてそれにまつわるそれまでの年月です。神道山ご遷座の決断、それは昭和四十三年でしたが、当時の教団の皆様の英断・決断があったればこそできたものです。“決断”と言われて新たに思うのですが、人生にはあらゆるところで決断しなくてはならない時があると思います。
決断という言葉をキーワードにしてみると、ふり返ってみて、今まで三つの大きな決断があったと思います。一つは、やはり青年連盟長時代に連盟が取り組んだ“重障児運動”です。「中・四国を対象に重症心身障害児の施設を造ろう」という社会運動でしたが、その開始には若いなりに大きな決断がいりました。
二つ目は、立教以来百六十年間、本部のあった霊地大元から神道山への大教殿をはじめとする本部丸々のご遷座というこの決断。
そしてもう一つは神道山へ上がってからのことですが、もう八年前になります、チベット仏教のダライ・ラマ法王をお迎えする責任教団となることでした。いずれもその決断に共通していたのは、個人的なことならともかく、教祖神以来連綿と続いてきた、そして多くの皆様方の集まりである黒住教という教団の、ひとつ間違うとその行く末にかかわる決断でしたから格別のものがありました。ふり返ってみると、その最中ではなかなか分からないことですが、ご神慮であった、ご神徳をいただいた、という以外ないわけです。個人とすると、そういう中に居らせていただけたということは、本当に幸せだったと思っています。
―教主様は、教主ご就任にあたり、「ご告諭」をもってその所信を述べられましたが、その中に「御日拝こそ現代を救うものである」と示され、以来三十年間欠かすことなく、お日の出をお迎えしての御日拝をおつとめになってきています。私たち道づれに大きな自信と安心感を与えて下さっている御日拝についてお聞かせ下さい。
教主 申し上げるまでもなく、本教は“日拝の宗教”といえます。それは教祖神ご自身が、長(なが)の病からのおかげを受けられたのが御日拝であり、立教の時となる“天命直授”という一大宗教的神秘体験を得られたのも御日拝です。そもそも神道山に移り上がったのも、岡山に新幹線がやって来る、さらに瀬戸内海に大橋がかかるということから岡山市の都市計画地区に大元が入ったことに始まります。都市化によってそれまでの田園の緑の中の霊地大元が大きく変貌(ぼう)する。これでは日拝の宗教たる黒住教の“いのち”にかかわるということから、皆様と一致団結して神道山へ上がったわけです。神道山に上がるということ自体が、なまなかのことではなかっただけに、教主の私がせめて日々、お日の出をお迎えしての御日拝を欠かさずつとめるということが、ご苦労をいただいた皆様方に対する教主としての責任であると、実はそういうところから始まったのです。
―三十年間、御日拝をつとめ続けてこられて、感じられるところをお教え下さい。
教主 世界的な問題になってきている環境問題を持ち出すまでもなく、御日拝では大自然と人との在りようを教えてもらえます。お日の出を拝むということは日本人の信仰心の原点だと思いますし、世界の宗教の元をなすものであるとも思います。私たちは、教祖神の御日拝の御瀬踏(みせぶみ)に習ってつとめているわけですが、歳月を重ねるにつれて“お米作り”でもって日本という国が形作られてきたという確信がつのっています。一粒のお米に宿る命、それを育(はぐく)む様々なお働き。そこに遥かなる先祖がお日様に頭(こうべ)を垂(た)れた。ここに感謝の宗教たる“神道”が始まったとの思いが強くなりました。
また今日、御日拝は“いのちの充電”と申していますのも、それは昭和五十二年二月末の御日拝の体験からです。
厳寒の中、山の端にお日の出を迎えた瞬間、わが身のどこにそのようなところがあるのかと思えるほど奥深いところから熱いものが湧き上がってきまして、またたくうちに全身に広がり、えも言われぬ心地よさの中に私はいました。「ご分心」を体感できたまことに有り難いときでした。
さらに、日々の御日拝後の大教殿御神前、祖霊殿、そして奥津城のご拝は、いわば“炊きたてのご飯”をお供えするような思いでのおつとめになっています。
とは申せ、神道山だから私たちは毎朝暗いうちから起きて御日拝をしているわけで、それを各教会所の皆様方にもつとめるようにというのではありません。教会所にあってはそれぞれの時間の日拝式から一日の祈りが始まっていると思いますが、さらにお道づれの皆様方とすると、何時であれ、起床して洗面をすまされたら東の空に拍手のひとつでも打って、御光を全身に受けてご陽気のひとつでもいただいて、一日を始めることをぜひつとめていただきたいと思います。いわば、それだけでもつとめていれば黒住教の精神はその中に脈々と生き続いていくと思います。
明年は立教百九十年になりますが、今日教団は、“立教二百年大祝祭”(平成二十六年)に向かって歩んでいます。その長い歴史の中には海あり山ありでして、いつも御日拝をつとめながら一方で思うことは、私は本当に幸せ者ということです。昭和の初期に学校を終えて教団にお帰りになった父五代様の御日拝は、たった一人だったわけですから……。おかげで私は一人で御日拝をしたことは一度もありません。五代様のたった一人の御日拝があったればこそ、今日の神道山の御日拝があるという思いがいつも頭から離れないのです。
―日拝壇で教主様と“同殿共床”の御日拝のおかげを受けたお道づれの喜びの声を次々と耳にします。
教主 やはり、共に神道山で御日拝のときを持った方は格別ですね。あるお道づれでない方、岡山市内のあるご年配の方がおっしゃったのですが、「年を重ねて、朝が早い。目が覚めると、教主は今神道山でお日の出を拝んでおられる、そう思うだけで、心がスッと洗われる気がする。有り難うございます」と。それも一人や二人ではありません。一緒に神道山の御日拝のおかげをいただいたお道づれの皆様方が、同じような思いを持って下さっていることは知っていましたが、お道づれ以外の方にもそういう方がおられるということを知って、改めて責任の重さと、また御日拝を欠かさずつとめる重大さを教えられたことです。
―数々の節目の大祝祭を迎えるに当たっては、教主というお立場にもかかわらず率先して布教の先頭にお立ち下さってきていますが、それは、昭和五十五年の教祖神ご降誕二百年大祝祭に向けての「教区道づれ大会」(昭和五十三年から五十五年)、また続く伊勢式年遷宮ご奉賛運動、さらに先年の教祖神百五十年大祭に向かってのご布教等、次々とありました。
教主 本教の伝統的なよき特色の一つは、教祖神御自身が連日のごとく“天心講”と呼ばれる集いに、足を立てておられたことに始まる姿勢です。そういう伝統に習って、今もそうですが、各教会所を巡らせていただくことをずっと続けているわけです。
実は古くは、私が学校を終えて教団に戻りましたのは昭和三十六年ですが、昭和三十九年の立教百五十年、宗忠神社ご鎮座八十年に向かっての布教を兼ねての初めての教会所巡拝でした。お説教をつとめながら、皆様方お一人おひとりと結ばれるつながりはかけ替えないものです。それは感動の連続でした。私を見つめられるお一人おひとりのあの眼差しこそ、神道山ご遷座への力の源泉となりました。また、先年の教祖神百五十年大祭に際して、「動く参道」の建設を呼びかけさせていただいたときの確信の源もあの眼差しでした。
このように各教会所へ上がって皆様方と直接お目にかかるということは、お道ならではの有り難いときです。教主になる前からも、いわんや教主になってからも一番の宝です。
一方で次々とおかげを受けられた方の報告を受けることも喜びで、それは自分がおかげを受けた以上に嬉しいことです。こういう余所(よそ)の世界では経験できない、宗教の世界なればこその独特のことでしょうし、お道ならではの感激です。
―失礼を申しますが、この三十年の間には辛(つら)いこともおありになったと思いますが。
教主 やはり三十年をふり返ってみますと、失敗もあるし、悲しみもあるし、反省せざるをえないところも多々あります。「教主様だけが頼りだ!」と、お医者様にも見捨てられ、誰からも見捨てられたような人がすがってこられる。もちろん、私個人が助けるのでなく、まさに教祖神のお取り次ぎをさせていただくわけですが、その願いが叶わないままに、たとえ天命とは申せ、ご昇天になる。そういうときの残念な思い、辛さは、これはまた助かったときの喜びが一方で大きいだけに、余所の世界では経験せずにすむところを味わうのです。
個人的には、弟の忠弘の急逝(平成六年十月二十八日)です。これには兄として、弟に対してもっとなすべきことがあったのではないかという思いがあります。そしてそれは同時に、母にわが子に先立たれるという悲しみを持たせた悔いにもなるのです。そこまで兄の私が責任を持つというのはいかがかという人もおられるでしょうが、教主という立場にいる者として、やはり避け難いものがあるわけです。ただその反面で、そういう悲しみというのは決して単なる悲しみではないのです。そのおかげで、同じように弟や妹に先立たれた人に対する理解が深まるというか、そういう有り難い体験にもなっているのです。
また、私の至らざる言動のために教団を離れざるをえなくなった人もあるわけで、これなども恥ずかしい体験かも分かりませんが、これもまた私にとっての新たな出発の元ともなっているわけです。
すべてよしとまでは言いませんが、やはり三十年の歳月の中には、有り難いことがいっぱいあるとともに、辛かったこともふり返ると沸々(ふつふつ)と出てきます。
―“お道の後継者育成”が今日の教団の重要課題の一つとなっていますが、大元家におかれましては、教主様ご長男の宗道様が副教主として道統を受け継ぐべくおつとめになっており、私たち道づれも心強く思っています。
教主 六代教主という立場にいる者とすると、長ーい階段がこれからも続いていかなくてはいけない、自分はその長い階段のワンステップにすぎないという思いとともに、この階段がなかったら、次のステップはないのだという思い。こういうものが内にあるわけです。
そういう意味において、長男の宗道が学生生活を終えて帰って来て教師を拝命し、現在は副教主に就任させていただいているということは、ご先祖に対してひとつの責任を果たしているという喜びと、またお道づれ各位、先輩諸氏に対しても、同じように責任を果たさせていただいているという喜びがあります。
八代の宗芳が誕生し、現在中学一年ですが、この宗芳についても同じ思いが湧いてきます。これはまた、こういう立場にいる者ならではの感激をいただいているわけで、本当に有り難いことです。
とにかく、御日拝から始まる一日一日であるわけですが、先ほどもありましたように、御日拝から生まれるもの、やはりそれは教団の姿勢としてひとつの社会的に感化力を持ったものでなくてはならないと思っています。その一つの表れが植樹運動です。幸か不幸か吉備の中山・神道山の赤松がどんどん松くい虫に侵されていきましたから、これではならじと、ちょうど十年前の教主就任二十年のご遷座記念祝祭のときに、皆様方と一緒に緑の文字で“神道山に太古の森をつくろう”と染められた揃いの白ハッピを着けて植樹をつとめました。あれから今日に至るまで、十万坪(三十三万平方メートル)の神道山に次々と植樹をしてもらいました。その“深根”の切られていない、“ポット苗”はもの凄(すご)くたくましい生命力で伸びていっています。
また同時に「神道山水サイクル」という名のもとに、“まること”という御教えを具現化したプロジェクトとして、生活排水を浄化した水を山に戻す試みが継続して行われています。ちょうど植樹とあいまって、これも大きく寄与して緑の復元の力になったのではないでしょうか。こういう動きを率先して執り行うことのできる教団であることを、私は教主として嬉しく思うし、誇りに思っています。
