ヒトはしつけられて人となる

平成15年9月号掲載

 かつて京都の東福寺で、管長の福島慶道師と儒教の老大家岡田武彦先生、そして私の三人でいわゆる鼎談(ていだん)のときを持ったことがあります。この時のご縁で、過日、岡田先生からそのご著書をいただきました。「ヒトは躾(しつけ)で人となる」という表題になるもので、「礼」を重んずる儒学者の先生とされると、今日の“礼を失した”まさに“無礼な”言動の多い世の風潮に、止(や)むに止(や)まれず筆を執られたようでした。
 まず、目に止まったのは、「人間を生物学的に“ヒト”と呼ぶようですが、人間の社会生活を円滑に進めるための躾を身につけていませんと“ヒト”の段階に止(とど)まって“人”になることができないのではないでしょうか」の一節でした。
 思い起こしたのは、岡田先生と同じ九州大学の教授だった池見酉次郎先生で、この方は日本で初めて“病は気からの医学”としての心療内科を確立された医師として有名ですが、若い時この方と対談したときにお伺いした“オオカミ少女”の話でした。
 今からいうと百十年ほど前、インドのカルカッタの近くで二人のオオカミ少女(推定年齢二歳と七歳)が発見され、この二人をなんとか人間らしく育てようとした努力も甲斐(かい)なく失敗に終わったという話でした。この少女たちは赤ちゃんのときに狼(おおかみ)にさらわれて、折しも子を産んだばかりの母親狼に一緒に育てられたのでした。池見先生はその著書「心療内科」の中で次のように記しておられます。
 「この事実は、人間は人間の手によらなければ“人間らしく”なれないことを教えてくれている。いわゆる“氏(うじ)より育ち”で、生まれてからの育て方いかんが人の運命を大きく左右することを物語っている。人間形成にとって乳幼児期がいかに重大な意味をもつかについては、すでにのべたが、アメリカのワトソンという学者は“生まれたばかりの健康な赤ちゃんを何人か与えてくれれば、芸術家、教育家、ドロボウ、なににでも仕立ててみせよう”といっている」。
 岡田先生はその著書の「まえがき」で次のように述べられます。「“しつけ”教育を子供に施しておけば、その子供の生命力が強固になり、やがては個性豊かな主体性が確立されて、いかなる事態に遭遇しても無碍(むげ)自在にこれに対処できる真の自由人になり得るでしょう」。
 「けじめ」の大切、そのための礼節、とりわけ「挨拶(あいさつ)」に始まる「礼儀作法」、「言葉遣(づか)い」の大切を説かれます。特に子供のころから敬語をしっかり教えることを訴えられているのには感動さえいたしました。
 日本語は世界でも数少ないいわば記号化されていない言語、それだけに生きた言葉で、まさにわが国のことを古来「言魂(ことだま)の幸はふ国」と言われてきたように、言葉に魂がある言語です。正しく使えばそれに応じて心もその言葉に添ってきますし、また心がそのまま言葉に表れるということでもありましょう。岡田先生は、「敬」とは他を敬う、尊ぶとともに自らをつつしむという意味があり、そこに自らを養い「常に自己創造、自己発展」していく道があると説かれます。
 実に“しつけ”は「仕付け」であり、ひとつのことを身につけるには「ひたすら繰り返す」、そこに「躾」すなわちその身が美しくなってくるわけです。
 ところで、霊地大元の旧の大教殿は今は武道館として青少年に開放されていますが、毎夕、柔道、剣道、空手道に励む子供たちや青少年の元気な声が絶えません。武道はまさに「礼に始まり礼に終わる」もので、ここでは玄関でぬいだ靴を揃えることから始まって道場に入退場のときの礼、先生にはもとよりお互いの挨拶などきびしくしつけられます。そしてその稽古は、字の如く古来伝えられてきたところを考察するということの繰り返しです。相手を得ての練習まで、毎回、いわゆる基本の技の練習が繰り返し続けられます。実はこの時、子供たちに辛抱できる心と体が養われるとともに、この基本の技がきっちりとできるようになるにつれて、挨拶はもとより礼儀作法も身に付いたものになってきます。
 二十年余り前、旧大教殿を改築してその名も黒住教武道館「生々館道場」として活動を始めたころのことでした。私も、運動不足解消のため“空手形”と冗談を言いながら、子供たちと空手道の稽古を始めました。ある日、稽古時間にはまだ間があり宗忠神社の前を散歩していましたら、若いご婦人に声をかけられました。その息子さんが空手をしているということから、霊地大元近くのお宅に案内されてお茶をいただくことになりました。初めて会うご主人と、その出身地の県北に住まわれる母堂がつくって送ってくれたという“よもぎ団子(だんご)”をいただきながら談笑しているところへ、件(くだん)の息子、小学校の二年生ぐらいでしたかが帰って来ました。私のいることに驚き喜ぶとともに、お母さんの出すよもぎ団子を早速、口に入れていました。しばらくしますと、お母さんがこの子に近所の友達にもよもぎ団子を持って行くようにと話し、この子は喜び勇んで団子の入った箱を手に飛び出して行きました。私は、ご主人であるお父さんに、「奥さんはよい教育をされていますね」と申しましたら、教育という言葉にけげんそうでしたが、その真意が分かるととても喜んでくれました。
 おばあちゃんのつくって送ってくれたおいしいお団子。それを友達に“おすそ分け”しているときのこの子の心は、自分自身がお団子を食べておいしいと喜ぶ心よりもっと大きく、まさに心ふくらむ思いになっていたに違いありません。そういう機会を子供のためにつくったお母さんを称(たた)えたのでした。
 改めて思います。「ヒトはしつけられて人となり、人につくして人間となり、そこに神への道が開かれる」ということを。