母と子の絆(きずな)

平成15年8月号掲載

 以下はある児童養護施設長の述懐です。
 「今も昔も、様々な理由で子供を施設に預ける親は跡を絶ちませんが、その親子関係は大きく様変わりしました。二十年ほど前までは、母親が訪ねて来ていざ面会となるとなかなか会おうとしない子供でも、いったん会うと抱き合って涙、涙です。そして別れる時、母親はまさに後ろ髪を引かれる思いで帰って行くのですが、その後ろ姿に子供は泣いて罵声(ばせい)を浴びせます。時には“この鬼!”とまで言って……。ところが、最近の母親訪問といったら全くそっけなくて、“元気?”“うん、来たのか……”。帰る時も双方が“バイバイ”で、それで終わりです。母親に泣きつき、別れるときに“鬼!”とまで言うような子供は、成長してそれぞれ社会人として立派に生きています。しかしどうでしょうか、母親ともまるでプラスチックのような無機質な関係の子供が、成長してどんな人生を送るのかと思うと空恐ろしくなります……」と。また、中・高校生で過ちを犯す少女たちに「自分を大切にしなさい」と言うと、「自分を大切にするって? 大切にされたことがないから、何のことか分からない……」という答えが返って来るそうです。
 何が原因か、この施設長の結論は、「今日、子供より自分の方が大切な親が増えてきた。昔はその逆でしたが」とおっしゃるのでした。

 ところで昔の話になりますが、私の学生時代の昭和三十年代初め、ある全国紙に教育問題を取り上げた連載小説がありました。作者は若いころに岡山に住んでいたからご存じだったのでしょうか、教祖神ご幼少のころの「下駄とぞうり」の御逸話そっくりの話をある教師の口を借りて書いていました。
 「僕は子供のころ、親孝行についてこんな話を聞かされました。ある少年が学校へ行こうとしたら、きょうはお天気だから草履(ぞうり)をはいて行きなさいと、お母さんが言った。すると父親が、午後から雨になるから足駄(あしだ)《編集部注1》をはいて行けと言った。少年は父にも母にもさからってはいけないと思ったので、右足に草履をはき、左足に足駄をはいて学校へ行った。……
 これが模範的な親孝行だという風に教えられたのでした。僕は正直に言いますが、断じてこんな子供には育てたくありません。こんな風に人の言うなり放題になる人間、自分の考えというものの全くない、個性のない、信念のない人間。これは一番軽蔑(けいべつ)すべき人間です。 」─。
 私はある朝この一節を読み、誤ちを正さねばとの思いとともに強く義憤も感じ、早速、手紙を出しました。その概要はだいたい次のようなものであったと記憶しています。
 「……これは後に黒住教の教祖になった黒住宗忠の幼少のころの話を引用されたものと思いますが、先生は事実を間違って記され、従って間違った解釈をしておられると思います。
 まず、下駄とぞうりを片々にはいたという年齢は、五、六歳あるいは長じていたとしても七歳のころのことです。ということは今日の満年齢で言えば三歳から五歳のころです。今日、先生もご存じのように幼児と子供との境界は小学校二年生の年(とし)ごろといわれています。幼児は日常生活の行動で大人(おとな)の60%余りのことしかできないのに対し、ここでいう子供は95%までのことができるのをいうようです。いわば幼児の年ごろの宗忠にとって、父母の言うことを自らの判断で左右するより、そのまま受け入れる方がその年ごろの子にふさわしいのではないでしょうか。親を信じ切る宗忠の心こそこうした態度をとらせた元で、その心をこそ尊ぶべきではないでしょうか。ドイツの詩人ヘルダーリーンは『真の子供が真の大人になる』《編集部注2》と言っていますが、幼児期から親を信じることのできるように生み育てることこそ親の責任ではないでしょうか」。
 返事は来ませんでしたが、四十数年を経て、この“教師”のような考え方で子供を育ててきた当時の大人の誤ちが至るところで目に付く今日の世の中です。

 一昨年八月、岡山の玉野市の東南端、瀬戸内海に面した出崎という所に、「GARI」と称されるチンパンジーの広大な村が開設されました。これは林原生物化学研究所の創設したもので、人類に最も近いチンパンジーの研究を通して人としてのありよう、さらに人間とは何かを学ぼうとするものです。過日、私も初めて見学の機会を得、様々なことを教えられ、また考えさせられました。改めて感じ入ったことは、チンパンジーにとってもやはり「三つ子の魂百まで」で、一人の人間にとっても乳幼児期の日々は人生の最も基層をなすもので、そのころに育(はぐく)まれる母親との絆の大切でした。
 女性の社会進出は今日当然のことですが、ひとたび子を持つ親になったら、せめてその乳幼児期には何をさしおいても子供の側(そば)にいる母親であってほしいと思います。父親の役割の大きいことも言うまでもありません。例えばお風呂に入れるとか、父親としてのいわゆるスキンシップも“手抜き”をしてはなりません。とかく、コンピューターゲームなど仮想の世界に身を置きがちな今日の子供に、現実の生活を体験させることなどは父親の大切な役割でありましょう。
 先日、ある若い母親に乳幼児期の重要さについての話をしていましたら、次のように申しました。「女性が働かなかったら家計は大変苦しくなります。でも子育てほど価値ある仕事はありませんし、これ以上の喜びもありません。子供は日に日に発達していますし、毎日が新しい発見です。母親としてその感激は何ものにも代えられません。乳幼児期には子育てにすべてをかけていきます」と。そこには子育てを通して成長している女性の力強ささえ感じました。
 教書に次の御神詠があります。
 なかなかに人ざと遠くなりにけりあまり深山(みやま)の奥をたずねて(御文四二号)
 知恵と心得て最も大切なところから遠ざかりいく者に対するご忠告です。何が大切か、人間どこに重心を置いていかに生きるべきか、今日の時代に生きるお互い、よくよく「反省の誠」を致さねばと思うことです。

《編集部注1》
足駄(あしだ)は、雨降りのときなどにはく歯の高いげた。高げた。
《編集部注2》
ドイツ最大の詩人の一人フリードリヒ・ヘルダーリーン(一七七〇~一八四三)がその唯一の小説「ヒュペーリオン」の中で述べた言葉で、正式には「完全な幼子(おさなご)でなかったものは、完全な成人になることはできない」と書いている。