宗教について語る

平成15年7月号掲載

 教主様にはケーブルテレビ「oniビジョン」(本社岡山市)が四月一日から始めた新番組「こころの散歩みち」に出演されました。同番組は、宗教家や福祉活動家、また精神科医などが登場して“こころ”をテーマに話す企画ですが、第一回目に教主様がご登場になりました。
 今号は先月号に引き続いて、第二講を掲載いたします。(編集部)

 今日宗教というと、何かいかがわしいというか、うさんくさいという思いをもたれる方が多いのではないかと思います。いろいろな宗教者同士の集まりでも語られ、これはいつにわれわれ自身の問題だと、反省を込めて話題になることも多いことです。なにも今に始まったわけではないのでしょうが、宗教というと、何かたたりだとか地獄とかと言って、人を不安におとしいれ、果てはお金を大量に出させる……と、そのようなマイナスのイメージの方が多いのではないかと案じております。
 実は、そうした地獄とかたたりと称されるマイナス的なものをもプラスに転じていく、マイナスの意味を味わう、そこに本来の宗教があろうかと私どもは思っております。
 今年の節分祭も二月三日、大元の宗忠神社、黒住教の教祖の生誕の地であり、立教の地、ここで執り行われました。その時にお参り下さった方にもお話ししたことですが、教祖宗忠の在世中のこうした豆まきの時に、夫人が豆まきをしていて、途中で「鬼は外、福は内」がひっくり返り、「鬼は内、福は外」と唱えていまして、それを非常に喜んだ教祖はこういう歌を詠んだのです。
  鬼追わず福を求めず我はただ追われし鬼を福にみちびく
 そこでこの話を披露しながら、申し上げたのですが、oniビジョンから感謝状をもらってもいいなあと。鬼を追うのではなく、鬼を家に導く、家にいらっしゃいと、言ったのですから。冗談はさておき、鬼ともいうべきマイナスのものをプラスに転じる、そこに味のある人生が開けてくる、本当の意味のプラスがあるのではないか。とりわけ現代社会といいますか、ここ数十年、われわれはマイナスを切ればプラスになると思い込んできてはいなかったでしょうか。例えば、夏は冷房で暑さというものを切って秋をつくり、冬は暖房でもって寒さを切って春をつくる。それは年輩者にはともかく、青少年にとって果たしていかがなものでしょうか。そういうたぐいで、結局われわれ自身の生活、人生そのものをこくのない薄っぺらなものにしてはいないかという反省が、今申し上げます宗教者の方とも話題になるのです。

 ところで、私、岡山という所は非常に宗教的な風土といいますか土壌の豊かなところだと思っております。岡山の方はご存じだと思いますが、古くは栄西禅師、あるいは法然上人、キリスト教の救世軍の山室軍平先生、さらに黒住教と同じような教派神道と申しますか、江戸から明治に生まれました宗教の一つ金光教の教祖様、そして黒住教の教祖、そうした宗教の開祖、宗祖を次々と輩出しているわけです。こういう伝統があるからでしょうか、すでに戦前、昭和十年前後から岡山ではいろいろな宗教者による円卓会議的な集いがもたれております。今日でも世界連邦岡山宗教者の会などもちますと、その毎年の集まりに各宗派の宗教者またその幹部の方々が五~六百人集まって、大きくは世界の平和を掲げますが、実は日常お互いの宗教者としてのありようを、互いを鏡として反省し、あるいは学んでいこうという集いになって重ねられています。私、岡山でもやっていることなのだから他県でも各地にあることかと思っていましたら、市町村単位ならともかく、全県的な広がりをもって、しかもこれだけ積み重ねているというのは岡山だけだということを最近知りまして、驚くやら、あるいは責任の重さを改めて感じたことでした。
 さらにはこの若手集団ともいえる、RNNといって「人道援助宗教NGOネットワーク」と申しますが、新旧キリスト教、仏教、神道、古い新しいに関(かか)わりなく、多くの宗教教団の若い宗教者たちが集まって活動を続けています。つい最近も二月のことですが、寒さのなかに素足で靴も履(は)かずに生活に追われている路上生活者の方たちに大量の衣類などをこの岡山から大阪に持って行ったようですし、例のアメリカにおける9・11テロの後には、たとえ岡山からでも発信のひとつの基地としての役割ができるのではないかと、ひと月もしない十月三日にイスラム教の日本の指導者に、岡山においでいただいて、彼らがそれぞれの信者や会員に呼びかけて、一堂に会してお話を聞く会を開いていました。本来のイスラム教は決してそうした過激なものでないということに対しての理解を深め、またそれを岡山で開いたということを、今日の時代でありますから世界に発信し、それが一つのきっかけとなって、そういう会合が次々と各地で開かれました。今も厳しい状況には変わりありませんが、少なくとも“文明の衝突”といわれるような、イスラム社会対西洋社会の全面的な対立にはならずに、事件を起こしたのは彼らの世界においてもまともな者ではないのだということを多くの人が知ることになったということを、若い宗教者方から報告を受けまして、私も先輩の一人として非常に有り難く思ったことでした。

 いずれにしましても、宗教という宗教に共通するところはいくつかあると思うのですが、その一つは、人間を心と体だけとするのではなくて、心の中の心、果物で言えば芯(しん)、リンゴの芯のような働きとして魂の働きを信じ認めようとするところが宗教の共通するところであると思います。そこがまた、目に見えない心の中の心のことですから、難しくも、宗教がいかがわしく思われる元にもなるわけですが、今日ある大きな宗教教団になりました教祖の方がおっしゃったと伺っております「魂の問題は幼子(おさなご)が古井戸を覗(のぞ)くようなものだ」とかいう一言があります。ポチャンと落ちたら命とりだというわけです。すなわち魂の問題は、本当に足腰のしっかりとしたおとな、素養のある教養も身につけた人格的にもしっかりとした者が初めてかかわるべき問題であって、未熟な者がそこに首をつっ込むと人生を台無しにしてしまう。言うならば、宗教、信仰をもつということは素晴らしいことですが、その信仰が周囲の人たち、家族はもとより出会う人たち、みんなの幸せにつながる信仰でないならばいかがなものか……ということです。
 そして、その魂の鎮まる場、魂の座所である心の祓い、心の清浄、そういうことが尊ばれるのも宗教の共通するところです。
 神道では罪穢(けが)れを祓うと申しますが、今で言うならばストレスをためないということであり、常に心晴れ晴れと生きることが心身ともに充実した健康な生活に大切なわけです。さらに、最もここがどの宗教においても強調されるところですが、人間の「我」の問題です。人間は自分がかわいいですからとかく自分中心になりがちで、そのために自家中毒をおこすような自ら墓穴を掘るような誤ちをおかしがちなものです。宗教者自身が我執を断てとか、我を離れよということを強調しながら、一つの団体となりますと、自分の宗教が正しくてあなたのところは駄目だというような、「宗我」、宗教の我というべきものにとらわれがちになります。それを承知していた先人先輩方なればこそ、この岡山において各宗教の宗教者の集いを築き上げ、今日に連綿と続けて下さっていると有り難く思うことです。いずれにしましても、本当の魂を養う道、本当に自分自身を生かす道があるとするならば、それは、そういう我執を断って、人様のために自分以外のもののために、真心を、愛を、慈悲を捧げること。そこにグルッと回って大きく返ってくるものがある。それこそ魂を養う栄養である。そこのところを説き、また実践するのが宗教であろうと思います。
 ご存じのごとく、キリスト教においては天地を貫くような愛の縦軸、自己犠牲という横軸、これが十字架です。仏教においては、とりわけ仏教の母山、比叡山の伝教大師の説かれた「忘己利他(もうこりた)-己れを忘れて他を利する-」。私ども古来の神道では神前に鏡がまつられてありますが、あの鏡にはいろいろな意味があります。「かがみ」の「が(我)」をとったら「かみ(神)」になる。なかなかその我が取りにくいのが現実のわれわれ人間です。ならば、「我」の字と神に通じる「誠」とか「愛」とか、それが同じバランスで「かがみ」と読めることならできるのではないか。例えば、おまんじゅうを十個もらって、全部人にあげるのはなかなかできないけれど、半分をおすそ分けするぐらいならできるのではないか……。そういう心構えで日常生活を重ねることの大事を説き実践するのが、宗教者の社会的な使命ではなかろうかと思っていることです。これとて言うは易(やす)くなかなか行いは難(かた)いのですが、努めてつとめてまいりたく思っていることです。