心の時代とは

平成15年6月号掲載

 教主様にはこのほど、岡山市内の約三万五千世帯が加入しているケーブルテレビ「oniビジョン」がこの四月一日から新しく始めた番組「こころの散歩みち」に出演されました。
 同番組は四月中、毎朝六時四十五分から十五分間放送されましたが、教主様には「心の時代とは」(第一講)と「宗教について語る」(第二講)をテーマに、ご講話になりました。
 今号は第一講を、次号は第二講の要旨をそれぞれ掲載させていただきます。(編集部)

 心の問題といいますと、実に幅広く、また奥深いことだと思います。感動といいますか、感激、この時をどれだけ私たちの生活の中で持っているかどうかということが、ひとつの大きな問題ではないかと思います。
 例えば昨年のワールドカップに多くの日本人が、まさに感動いたしました。先に引退した横綱の貴乃花の姿にも心を動かされました。いずれにしましても、スポーツにうかがわれるのは、全身でもって、身も心も一体になってのひたむきなところに人の心が動かされるのではないか。感動が少ないというのは、そういう自らの体験、またそういうものに接することが少ないのも一つの理由かなと思います。それだけ文明の利器と申しますか、便利なものに囲まれて、そういう体験がなくても生活が成り立っていく。その便利さが逆に肝心なものを薄めていると言えるかもしれません。
 昨年、私の身内の者ですが、結婚した若い女性が子供を授かりまして、出産いたしました。その母親が電話をかけてきまして、「お兄さん、元気な男の子が生まれました」。「おめでとう、何キロあったの?」と尋ねましたら、「それが分からないんです……」。えっと思いましたけれど、後で聞いてみてなるほどと思いました。うわさに聞いたことはありましたが、出産直後、おなかから生まれ出た赤ちゃんをすぐ母親のおなかの上に乗せまして四、五十分間。生まれたての赤ちゃんはそのままの姿でゴソゴソ動くそうです。そのうち、おっぱい目掛けて目を見開いて這(は)い上がってくる。その頃になってお医者さんはへその緒を切ったようです。お母さんの目を見ながら這い上がってきた赤ちゃんは左のおっぱいに吸い付いたというのです。その若い母親が申しておりましたが、「感激だった!よくぞ生まれてきてくれた。私の子供になって生まれてきてくれて本当に有り難う!」、生まれたての子供にお礼の気持ちでいっぱい、感激いっぱいだったと申しました。私はここに人間としての一番の肝心なところ、すなわち母親と子供との切っても切れない強い絆(きずな)が、もともとあるのでしょうけれども、それをさらに深め育てていく第一歩があったと思うのです。
 ここ神道山では毎年、相当数のカシとかシイ、モチとかタブといった雑木といわれたたぐいのものを植えていますが、いずれも深根とか直根とか、いわば木の生命線といわれる根っこの切られていないもの、いわゆるポット苗を植えております。それはその辺の植木とはまるで違ったたくましさで、ぐんぐん成長しています。生まれ出る赤ちゃんにとってその母親は大地であり、そこにしっかりとした根を張っていて初めて雨に打たれようと、風に吹かれようと、逆にそれをバネにして伸びていく、心身ともにしなやかでしかもたくましい人間に育っていくと思うのです。
 実は、われわれ人間も哺乳(ほにゅう)動物においては、犬もネコも変わらぬところがあるわけで、さらには、生物という点においては、人間も木や草とも共通するところがあるのではないでしょうか。いわばそういう視点に立ってもう一度自分自身を、そして人間生活を見直すというのが、心の時代といわれる今日、大切ではなかろうかと私は思っております。
 と申しますのも、ここ神道山では、今朝もそうでしたが、素晴らしいお日の出をお迎えしまして、日拝と申します、日の出を待ち拝(おろが)む日拝を毎日おつとめしております。ほんのわずかな時間ですが、お日の出を迎え拝んだそのしばらくの時間は、俗にいうピースフルなというか心鎮まる、水でいうならば汚濁(おだく)がずっと澄んできたような、そういう時でして、一本の木とも、一つの石ころとも話ができるような、錯覚かも分かりませんが、そういう思いに浸るのです。
 私どもの教団本部が大元からここ神道山に上がる前まで、数えて三十年前ですが、神殿でした建物を武道館にいたしまして、柔道・剣道・空手道の道場としていつも子供たちの元気な声がしております。この武道の世界では「シュ・ハ・リ」ということを言われるのです。シュというのは守るということです。ハというのは破る、リというのは離れる。基本を徹底して守って、いわば枠に入って、枠を破って初めてそこに個性があらわれる。離というのは自由自在、とらわれのない、こだわりのない名人の境地でありましょう。
 実は百五十年ほど前、一八五〇年頃がイギリスのビクトリア王朝時代、最盛期だったらしいです。それ以前の人たちと、それ以後の人たちの人間観が大きく違うと、私の知り合いの学者から教えられたのですが、そのピークを迎えるまでの人たちというのは、「人間というのは試練の中に身を置いて初めて本来の人間たりうる」という考えです。ところが、ピークを迎えた後の人たちに共通するのは、「人間というのは何ものにも束縛されない自然な生き方こそ本当に人間らしい生き方だ」。こういう考え方が支配的になったと。その結果は国としての力が衰えていったというわけです。私、思いますのに、いずれも正しいと思います。この何ものにも束縛されない、とらわれないという生き方というのは、今の「守・破・離」で言うならば「離」の境地です。ただ、その前段としての、もっとも基礎的な「守」の段階、そして本当に誰も真似のできない個性を発揮する「破」の段階がぬけている、忘れられていると思います。山へ登るときも、一合、二合目とどこを歩いているか分からないような中をひたすら登り、四合目五合目ぐらいからサッと視界が開けてきて、そして頂上に到達したときの感激は言葉にも何にも表現できないと、山登りの方からよく聞くことです。同じ頂上でも、ヘリコプターでポッと降りたのでは本当の感動はないのではないでしょうか。
 今のわれわれの生活は、山の頂上へヘリコプターでポッと降りるような便利さを享受しているからこその今日ですが、それはあくまで手立て、手段であって、本当の山登りはそうではない。本当の人生を生きるということは一日一日を感動と感謝でもってどれだけ生きているかということ。それにはやはり全身全霊をもってことに当たる時間、またそういう人との出会いを大切にすることです。なかなか言うは易(やす)く行うは難(かた)い現実ですが、どうぞ感動と感謝の一日一刻を求めていただきたいと心から願います。