五代様の青春時代

平成15年5月号掲載

 十年程前になりましょうか、久しぶりにお参りした京都の平安神宮《編集部注》でお迎え下さった年輩の権宮司はやさしいまなざしで私をみつめながら、昔話を聞かせて下さいました。「私は岡山一中であなたの御父上の後輩でした。御父上は御身も心も丸く大きな方で、応援団長として鳴らしていました。私もその一員だったのですが、野球や柔道の対外試合などに応援団は駆けつけ、時には大元の神社の大太鼓まで借りてきて賑やかにやったものです。仲間の誰かが作ったのでしょうが、応援歌に次のようなものがありましてね……」と言って手を打ちながら歌い出されました。
 「おっそれ、それそれ、おっそれよー、黒住様のお告げには、今度も一中が勝ちじゃとさー、勝て勝て勝て勝て勝ちまくれー」と。それはまた、私にとっても昔の昔、小学生時代に父五代様につぶやくように歌って聞かせてもらった歌そのもので、懐(なつ)かしさもいっぱいでした。
 五代様は六人兄弟の三人目で、明治三十八年十一月一日に誕生されました。その年、日露戦争が終結して平和が訪れたことを喜び、また世の平和に尽くすことを願って宗和と父四代様は命名されたようです。
 多くの方にご存知いただいていることですが、ご母堂きよ様が、腎臓炎を患っていらした時の出産でしたので、八カ月余り、しかも五百刄(もんめ)(1800g)あるかないかの未熟児でのお誕生でした。「母がいのちがけで生んで育ててくれたわが身。わが誕生の日は母への感謝の日」が口ぐせの五代様でした。この辺りにも、名実ともに「和」の字が付くにふさわしいお人柄の方でした。
 きよ様が太った方であったことから、五代様も小学生時代からすでに体重は人並みはずれたものがあったようです。時は大正時代、大元から旧岡山城の城内にあった岡山一中に通う時に乗られる自転車は、「いつもタイヤがペチャンコで、自転車がこわれないのが不思議……」という町の人の声があったほどの重さであったようです。
 「私は一中の“表裏”八年通ったから、友達は数え切れないほど多い。学校時代ほどよい時はない。お前もゆっくり行け」と、度々口にして、せっかちの私を戒めて下さっていました。旧制中学校五年間のまさに表裏に近い八年間にできた友人には林原一郎氏(?林原社長)、大原総一郎氏(大原美術館で有名)、浦辺鎮太郎氏(大教殿の設計者)、さらには僧侶、神職、医師、弁護士、学者、役人……と、それぞれの分野で全国的に活躍した方が次々とありました。それらの方々の多くに後にお目にかかる機会を得た私は、そのいずれもが、ほとんど五代様より年下であったことからも、“表裏”のすごさを見せつけられたことでした。
 当時の岡山一中は質実剛健な校風でもって聞こえ、五代様を教えられた体操のハダカ松(吉田先生)、化学のアボ(鶴見先生)、図画のギース(河野先生)、生物のネコ(武田先生)といった独特のアダ名のついた先生とは、かつての岡山一中が岡山朝日高校となった教室で、私も教えを受けるご縁となりました。
 「君のオヤジはな、自警団という不良取り締まりのグループの長で、生徒間のゴタゴタや、若い先生の起こした問題まで円満に片づけていた……」。これら見上げるような“オジイさん先生”は口々に五代様の若かりし頃のことを、それも授業中によく話して下さり、帰宅しては夕食の場の話題となったものでした。
 「お父さんはなー、皆にかつがれてそのような役になっていたんだが、よく憶(おぼ)えているのは、その当時、生徒は映画館の出入りが校則で禁じられていてね。だからハンチング(帽子)をかぶったりコートに身をかくして行く者が絶えず、それが不良化の元にもなっていた。それではならんと、校長先生にお願いして、一中の角帽(岡山朝日高校になってもこの伝統は守られていた)をかぶり、ちゃんと学生服を着て行くのならよいという校則に変えてもらったんだ。そこで私ら自警団が監督ということで映画館に常駐し目を光らせることになったのだが、私の映画好きは実にここに始まっているんだよ」と磊落(らいらく)に話されたのが思い出されます。
 「“もく検”というのがあってな。タバコをかくし持った生徒を調べるのだが、お城の下に全校生徒が整列させられ、何人かの先生は城壁の上から監視しとるんだ。多くの先生方は一人一人のポケット検査。毎回びっくりするほど多くのタバコが集まった。それを全部、私のところへ持って来て“お前は太っとるからタバコを吸って少しはスマートになれ”と言われたものだ。これには参ったよ……」と、笑われるのでした。良き時代というのでしょうか、私の時代とはまるで違う青春時代が垣間(かいま)見えた思いがしたものでした。
 大学は東京の國學院大学へ進まれましたが、ここでも応援団長として勇名をはせられたようです。東京のお道づれが提供して下さった一戸だての家に住まわれ、そのいくつかの部屋は、当時、日本やフランスへの留学の多かった中国人留学生の何人かに提供し、毎日が国際色豊かなものとなっていました。今日、神道山で食事というと“大元鍋”が定番ですが、これは五代様の考案で始まったもので、御神前の御塩と御水をベースに、御供えされた海幸山幸(うみさちやまさち)をともに煮る鍋料理です。すべてが煮えたら最後に“春雨”を油でカラッと揚げたものを入れて、山のもの海のものをつなぐように煮て初めて箸(はし)をつけます。この春雨を油で揚げる料理法などは、五代様学生時代の中国人留学生の指導によるものと思われます。
 昭和三十年代の私の学生時代、上京した私を迎えて下さった方に、折から台湾から出張して来ていた台湾中國銀行の幹部クン・リー・インという紳士がありました。かつて五代様とひとつ屋根の下に住んでいた氏は、大きな手で私の手を握り、じっと私を見つめながら、「私の今までの人生で、あなたのお父様ほど立派な方を知りません」と流暢(りゅうちょう)な日本語で話されました。
 ご昇天になってはや三十年。私にとってますます大きなご存在の父五代様です。

《編集部注》平安神宮─御斎神は桓武天皇と孝明天皇。神楽岡・宗忠神社は、孝明天皇が唯一仰せ出された国家安泰と人心安寧を祈る勅願所(ちょくがんしょ)