心の祓いの大事

平成15年3月号掲載

 今月号の「道ごころ」は、教主様が岡山県立岡山西養護学校教育後援会誌「ともに歩む」第二十三集の巻頭言に執筆されたものです。この機関誌は知的障害児の教育に専念する先生方の体験集でもあります。教主様は二十三年前からこの学校の教育後援会会長をお務めになっています。(編集部)

 私は今、平成十五年元旦の初日の出を迎え拝(おろが)む「日拝式」を終えて、しばしの時間、次のつとめまでのまさに時の間にペンを執っています。
 山の端(は)に昇る赫々(かっかく)たる朝日に柏手(かしわで)を打ち共に新しい年を迎えた人々は、その多くを存知あげない方々なのですが、いずれもいわゆる“善男善女(ぜんなんぜんにょ)”で、まことに爽(さわ)やかな清々しい表情が続いていました。日頃の断ちがたい“我執”や“利己心”も影をひそめ、そこには、昇る朝日を拝んで新年を迎えることのできた喜び、さらには生かされて生きている感動ともいえる熱いものさえ感じられました。とりわけて思うことですが、やはり日本人はお日様が好きだということです。昔からわが祖先たちが「お天道(てんとう)様」とか「今日(こんにち)様」、「日天(にってん)様」と言って崇(あが)め称(たた)えてこられたのもむべなるかなと思います。当たり前のことながら、地球上のありとあらゆるものは太陽なくしてはありえませんが、ことにわが国は国名を“日本”と言い、国旗は太陽を表した“日の丸”とし、しかも西洋社会からは“日出(ひいず)る国”と言われてきた国柄です。
 このような思いと同時に感じたことは、人間には猥雑(わいざつ)なことから離れ、あるいは払拭(ふっしょく)、洗い流して、心を清(すが)しく清らかにする時が大切なのだと痛感し、これらの方々の顔つきから改めて教えられたことです。
         
考えてみますと、昨日もきょうも同じ一日であるはずなのに、十二月三十一日と一月一日とはまるで違います。私たちの生活にはこのような節目がいかに大事かとしみじみ思います。古来わが国では、十二月三十一日の大晦日(おおみそか)に豆を撒(ま)いて悪事を祓ったり、除夜の鐘をついて多くの煩悩(ぼんのう)を祓い去って新年を迎え、半年を経た六月三十日には“夏越(なご)しの祓い”とか“水無月(みなつき)(陰暦六月)の祓い”と言って、特に神社では茅(ち)の輪(わ)を鳥居の所へ作って立てて、そこを通り抜けながら過ぎし半年間をかえりみて悪しきことを祓い、神前に額(ぬか)ずき神威を得て暑い夏を乗り越えようとしていました。そして神社仏閣には一日と十五日を参拝日として、元旦の小型版のごとく月の一日ごとに、また半月を経たところで夏越しの祓いのごとく、その日を生活の節目としてきました。
 思いますのに、これらはわが国の微妙に移りゆく四季の変化に負うところも大きいと思いますが、そこに生まれる気性でしょうか、常に進取(しんしゅ)の気風を尊んだわが先祖方の智恵が伺われます。とかく惰性に流されやすく、退嬰(たいえい)的な生き方になずみがちな人間の弱点を熟知していたからこそ、このような節目、折目を尊んできたのではないかと思われます。
 この節目ごとに、習俗のように欠かされなかったのが“祓い”の行事です。豆撒きもそうですし、茅の輪もそのための手立てでした。こうしたことも、現在では目にする人も少なくなりましたが、昔も今も変わらないのは、人の心は本来きれいなものだけに汚れやすく、もともと柔らかなものだけにゆがみやすく傷つきやすいということです。いわゆるストレスなる心の汚れ、傷は募る一方の世の中です。ストレスが原因となった病気(これがまさに気を病んでの病気です)はもとより、ストレスが固まりとなって爆発したような考えもつかない事件のなんと多いことでしょうか。これを祓い除き、心を安んじ清めるための配慮がいかに重要かということです。

 宗教という宗教に共通することの最たるひとつは、人間を心と肉体だけでなく、心の中の心ともいうべき、世にいう魂の働きを信じ認めようとすることです。いずれの宗教にあっても、人の心を尊び清浄に保つことを教示しますが、それはいつに、心は魂の器、魂の座であるがゆえです。
 あたかも、人の住まう所が日陰でじめじめしているとカビがはえやすく、部屋が汚れっぱなしでは健康を害するように、陰気、心の汚れ、ゆがみなどは本体の魂を損(そこ)なう因(もと)として、祓い清めることが欠かせないわけです。
 心の問題は宗教にとどまらず、心理学に始まって医学、特に今日では“ブレインウェイ(脳道)”とまで言って理化学研究所で物理学者の研究の対象ともなり、最近は精神物理学という学問のジャンルもあるといわれています。精緻(せいち)を極めた学問はDNAからヒトゲノムにいたるまで、その進展ぶりは止(とど)まるところがありません。しかし、いのちの神秘、霊妙な働きも、神仏のおかげと受け止めてこそその働きが十全になるところを、単なる生命力と片づけてしまったのでは、小さなものになってしまうのではないかと危惧(きぐ)します。DNAも学問の上ではともかく私たちの日常の言葉として使うとき、そこには何か無機質なひからびたものしか伝わってきません。同じことを“血”と言い換えると、たちまち、まさしく血の通ったものとなり、生きたものに感じられるのは私の思いすごしでしょうか。
 本来ひとつの働きであったはずの宗教と科学が別の道を歩んで久しいわけですが、最近の進んだ科学は再び宗教と共に歩もうとしていますし、宗教の側にあっても、科学者に知的にも付いてゆけるだけの力をつけようとする人も出てきているようです。いずれにしても、それが人々の幸せ、平和につながるものでないならば邪道と言わざるをえないわけで、ますます人としての良識が問われる時代となってきていることは間違いないでしょう。
 かつて私は、出雲地方の婦人から、息子の嫁が妊娠したことを「お宮さんに日が止まった」と言われて驚き感激したことがありました。“日止(ひとど)まるがゆえの人”であり、“日と倶(とも)にあればこその人”と、人間存在を真実に尊んだ先人の良識に頭(こうべ)を垂(た)れる思いになります。
 この良識を曇らせないためにも、お互いの心の真の祓い、清めの大事を思うことです。